モーセとアロンが第8の災いを警告したとき、パロ(ファラオ)は家臣たちの進言を受け入れ、壮年の男子だけを行かせようとしました。しかし、主はいなごの大群でエジプト全土を襲わせました。パロは、「私は・・・罪を犯した。どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ」(10章16〜17節)と願いますが、やはり心をかたくなにします。エジプト全土が3日間真っ暗闇となったとき(第9の災い。このときもイスラエル人の住む所には光がありました)、パロは家畜を残して行ってもよいと言いました。しかし、主のご命令に対して取引はできないのです。モーセが拒否したので、またパロの心はかたくなになりました。
そして主は、最後の災いを警告されます。エジプト国中の初子がみな死ぬ一方、イスラエル人だけは区別されて救われる、というものです。このとき以降、過越の祭りは、主の贖いという救いの恵みを覚え、人類の救いを預言する祭儀として、イスラエルの民の大切な行事となります。さらに、イエス様の十字架の贖いの死を記念する聖餐の礼典にまでつながるのです。
主がパロの心を強情にされたのは、主がエジプトとイスラエルの民の間で十の災いすべてを行ない、その主のみわざをイスラエルの民が子孫に語り伝えるためでした。それは、「わたし」と言われるお方こそが神なる主であることを、すべての民が認めるようになるためです。聖餐にあずかる私たちにも、神である主のなされた救いのみわざを語り続け、主を証しする責任が託されているのです(第一コリント11章26節)。