主がエジプトの地を蛙で覆われたとき(第2の災い)、呪法師たちも同じことをしますが、蛙を除き去ることはできませんでした。主はパロ(ファラオ)が望んだとおり翌日かえるを死に絶やしましたが、パロは強情なままでした。主がエジプト全土にぶよを発生させられたとき(第3の災い)、もはや呪法師たちに同じことはできず、「これは神の指です」と認めざるを得ませんでした。膿の出る腫物(第6の災い)は呪法師たちにも及んだので、彼らはモーセの前に立つことすらできませんでした。
あぶの群れがエジプトに満ちたとき(第4の災い)と、非常に激しい疫病が家畜に起こったとき(第5の災い)、そしてきわめて激しい雹がエジプトに降ったとき(第7の災い)に、主は、エジプトに対するさばきとイスラエルに対する救いとを明確に区別されました(8章22節、9章4・26節)。主のさばきは救いか滅びかであり、その中間はありません。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は・・・すでにさばかれている」(ヨハネ3章18節)からです。
パロはモーセとアロンに祈りを求め(8章8・28節、9章28節)、とうとう「私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ」(9章27節)とさえ告白したにもかかわらず、主が言われたとおりパロの心はかたくなになり(8章19節、9章12・35節)、強情で(8章15・32節、9章34節)、モーセたちの言うことを聞き入れず、彼らを行かせようとはしませんでした。パロは神である主を恐れておらず、主の強い御手によらなければ出エジプトは起こらない状況でした。人間はどこまでも強情で、主のご聖霊によらなければ、真に罪を悔い改めてイエス様を主と告白することすらできないのです(第一コリント12章3節)。