第3土曜 創世記46章〜47章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

【46章】 神の民の特徴

 エジプトへの招きの後、ヤコブはベエル・シェバに行き、感謝のいけにえを神様にささげました。これまでのエジプトとの関わりを考えると(12章14節・15章13節・26章2節)、恐れたのかもしれません。しかし神様は「恐れるな」と励まし、恵みの約束を与えてくださいました。恐れであれ、感謝であれ、礼拝に導かれていることが、契約の民、信仰の民であることの証であると知ります。
 8〜27節にはイスラエルの子たちのエジプトに下った者の名と数が記されていますが、この箇所は一種の権利証的な要素を含んでいると考えられます。神の民の名は「天にしるされて」(ルカ10章20節)いるのです。
 ゴシェンは、北エジプトの肥沃なナイルデルタの東部にあたり、家畜を飼うのに適した地でした。ヨセフとヤコブはそこで再会し、以降、その地に住み着きます。エジプト人の忌み嫌う「羊飼い」という職業を名乗り出て、彼らとは生活を切り離し、一線を画して歩んでいくためでした。エジプト人の地に住みながらも、エジプト人とは異なる歩みを選択したのです。クリスチャンが、この世で歩みながらも、神の民として一線を画して歩んでいく姿に重なります。

【47章】 この世の権威と神の権威

 いよいよヤコブ一家はゴシェンの地に移り住み、ヨセフの引き合わせでパロとの対面がかないました。このときのヤコブ一家の思いは、寄留、すなわち一時滞在でした(4節)。この民にとっては、たとえエジプトが富んでいたとしても、すぐれた文明の国であったとしても、決して永住する地ではなかったのです。また、ヤコブは臆することなく大国の王パロを祝福して(口語訳7・10節)、この世の権威ではなく、神様の権威の優位性を示しました。この世の権力や物質的なものはパロが持っていたかもしれませんが、全能の神の恵みはヤコブが持っていたのです。
 ヨセフは変わらずエジプトの宰相でしたが、決してその地位を誇るのではなく、その地位にあってできる最善を尽くしていきました。うがった見方をすれば、銀を集め(14節)、家畜を取り上げている(16節)ようにも読めますし、農地を取り上げてエジプト国民を奴隷化しようとしているように感じられるかもしれません。しかし、それらは飢饉のなかにある民衆の自発的なものですし、事実、彼らはヨセフによって生き延びたと感じ(25節)、信頼しました。種を無料で配り(23節)、上納を2割としたのも(24節)、古代社会の税率と比べるとはるかに寛大なものでした。それに、民から財産を得たのは、自分のものとするのではなく、危機による混乱の時代にあって、管理権をパロ(公)に移すことによって、民の浪費を防くためでもあったのでしょう。ここに、神様の権威の下にある者の姿を見ることができるのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条