兄弟たちの2度目の食糧買出しは、ためらい(43章10節)が馬鹿らしくなるほどに、あまりにもスムーズにことが運びました。しかし最後に苦難が待っていたのです。
愛する弟ベニヤミンの袋のなかに密かに銀の杯を入れさせ、祝宴の喜びの帰り道に兄弟たちを驚愕させ苦しめたヨセフの仕打ちは、残酷にも見えます。しかし、これは、なおも彼らを試みるための深い知恵による計画でした。後に、自分を制することができずに(45章1節)、ついに正体を明かす(45章3節)ヨセフの言動からは、そう推察できます。
この苦難に対しての兄弟たちの対応は、彼らが変えられたことをあらわすものでした。昔の彼らであったなら、盗みを犯したベニヤミンを残し、喜んで父の元に帰り(17節)、平穏無事に暮らしたでしょう。しかし彼らは兄弟全員で引き返し(13節)、弁解せず、全員で罰を受け、償う覚悟を示し、ベニヤミンを責めるのでもなく、神様が自分たちの咎をあばかれたと言って(16節)、神様をはっきりと認め恐れるに至っています。
また、ごまかしや嘘ではなく、正直で力強い、切実な訴えからは、父を思い、弟を思う愛情が響いてきます。そしてユダに至っては、身代わりを申し出、命をかけて真実にとりなすのです。神様からの取り扱いを受け、試練によって変えられた兄弟たちの姿を見ます。このユダの子孫から、ダビデやイエス様が生まれてくるという、壮大な神様のご計画も、私たちは同時に覚えておきたいものです。
ユダの身代わりの申し出をクライマックスに、感極まったヨセフは声を上げて泣きました(2節)。ヨセフはどれほどこの時を待っていたことでしょう。また、エジプトの宰相が急に通訳なしに話し始め、それがヨセフであるとわかったときの兄弟たちの驚きたるや、いかばかりだったことでしょう。
5〜9節のところで、「神は」あるいは「神なのです」と「神」という言葉が5回出てきます。このときすでにヨセフには兄弟たちへの憎しみや復讐心はなく、むしろ兄たちを慰め励まし(5節)、神様のご計画がとてつもなくすばらしいものであることに感動しながら、すべてが神様の導きであることを証ししています。神様を恐れ、その摂理に感動し、恵みに感謝することが、神様を証しすることです。
ヨセフに全幅の信頼を寄せるパロも、ヨセフ一家に好意を示し、車などすばらしい贈物を与えました。あまりにも荒唐無稽な話に、ヤコブは信じられず、「気が遠くなった」(新共同訳)あるいは「ぼんやりしていた」(新改訳)と訳される状態でした。それほどの神様の不思議なみわざに直面したとき、ただヨセフが生きていることに「それで十分」(新改訳)「満足」(口語訳)と答えるだけでした。ここに至ってヤコブはこれまでまったく知りえなかった神様のご計画を知り、神様の愛のすばらしさを知ったことでしょう。