ヨセフはなお2年間獄中生活を耐えなければなりませんでした。しかし、ついにパロ(ファラオ)の夢によって「急いで」牢から出されたのです(14節)。
40章にも高官の夢のエピソードが記されていましたが、夢は、その頃のエジプトにおいて預言的な意味があるとされ、夢の解釈の専門家が多く存在していました。そして、その専門家たちは「呪法師」と言われ、いわゆる魔術師や占い師の類ではありましたが、同時に「知恵のある者たち」でもあり(8節)、今日の学者や知識人、有識者のような存在でした。
当時のエジプトといえば、世界一の富、権力、軍事力、文化を誇った国です。ピラミッド、スフィンクス、神殿、壁画、たくさんの美術品、数学、天文学、気象学、建築学のすぐれた知識が存在したのです。もちろんパロはその中でも最高の知識人から知恵を得ることが出来る存在でした。しかし、パロお抱えの文明の最先端の知識人たちですら何の解決も与えられない問題が起こり、ヨセフが呼び出されたのです。
ヨセフからすれば、突然、思いがけず、何の準備もないときに呼びされ、いきなりエジプト王の前に立たされたのです。囚人でしたから失敗は許されない状況で、しかも相手にするのは世界の最高峰の知識と知恵だったのです。プレッシャーも当然のことだったでしょう。しかし、ヨセフは動じる様子もなく、私ではなく、ただ「神が」と信頼していました。
新改訳のこの章には、「神が」という言葉が7回も出てきます(16・25・28・32・39・51・52節)。ヨセフの強みは、彼のすぐれた能力とか、運がいいとか、倫理的にすぐれているとかいうことではなく、神への信頼です。そのことによって神様からのすぐれた知恵や幸運をいただいていたのです。そして、ヨセフは、当時最も文明と繁栄を誇っていたエジプトの王パロに、「神の霊の宿っている人」(38節)と称えられ、神様の栄光を大いにあらわす人になったのです。実際に国を支配する宰相にのぼりつめたのです(41節)。もちろん、ヨセフが最高の権威を得たこと以上に、世界が飢饉から救われたことの方がより意味深いことでしょう。それらすべてのすばらしいことの背後にあったのは、神の知恵と、それに信頼し栄光を帰す「神が」というヨセフの信仰だったのです。
41章は、この世の知恵と神の知恵との違いをあざやかに示す箇所です。と同時に、この世に関すること(現実、肉的、科学)と神に関すること(聖書的理想、霊的、信仰)とをステレオタイプに対比して考えるのではなく、すべてが神様の領域である、ということを教える箇所でもあります。