エサウとヤコブの兄弟関係の確執の背後には、イサクとヤコブの子育ての問題が影を落としています。父イサクはエサウを寵愛し、母リベカはヤコブを溺愛する。そのなかで、母リベカの入れ知恵によってヤコブは父イサクをそそのかし、兄エサウへの祝福を横取りしていきます。
父イサクの問題、それは、神の祝福をあたかも己れの自由になるかのように考えて、自己主張を連発する姿です。一方、母リベカの問題も深刻です。ヤコブを愛するあまり、夫イサクをだます手引きをする姿には、イサクを立てている主なる神ご自身への恐れは感じられません。
兄エサウになりすまし、長子への祝福を横取りするヤコブ。人間的に見れば、こんな彼が神の祝福を受け継ぐに相応しい者だろうかと困惑すら覚えますし、そのようにして受け取った祝福ははたして有効なのだろうかとさえ思います。
しかし、この点において聖書の答えは明確です。それは有効なのです。リベカやヤコブの欺きやイサクの誤解にも関わらず、それをも用い、乗り越えてご自身のご計画を全うされるという神のご計画と摂理の確かさです。確かに欺きは何があっても正当化されません。罪によって神の行為が成立するのではなく、神様が摂理においてご自身のご計画を成就される。このことの持つ厳粛さを覚えたいと思います。
兄になりすまして父親からの祝福を受け取った弟ヤコブと入れ違うようにして、兄エサウが父のもとにやって来ます。そして彼は、父からの祝福を弟ヤコブが横取りしていった事実を知るのです。父イサクもまた、自分の祝福した相手がエサウではなくヤコブであったことに大変な衝撃を受けます。エサウは大声で泣き叫び、取り乱し、父に訴えかけ、そして弟への怒りをぶちまけます。
しかしあらためて考えてみれば、長子の権利はヤコブが奪ったのではなく、エサウが納得の上でヤコブに譲渡したものでした。「こんなもの今の私に何になろう」と祝福の権利を軽んじたのは、他ならぬエサウ本人だったのです。それが今となって、長子の権利や祝福の内容がわかってきて初めて、それへの執着心が生まれてきているのです。
彼の問題はつまるところ、祝福に対する認識の誤りでした。彼は祝福を、神様からでなく父からのものとして理解していたのです。これらの出来事を通して、人の思惑で扱うことの許されない、神の祝福の重みということを教えられます。