第1土曜 創世記19章〜20章



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は、御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」という一節がヘブル書13章2節にあるが、これはまさに創世記19章1〜3節の話である。ソドムにやって来たのはただの旅人ではない。18章にあるアブラハムのとりなしの結果、御使いは「正しい者」が10人いるかどうかということを調べに来ている。正しい者がたった10人いれば、「非常に重い」罪を犯しているにもかかわらず、町全体は神の怒りから救われるのである。
 しかし、アブラハムが想像した以上にその罪は重かったのである。町から逃れたロトと2人の娘でさえ、とても恥ずべきことをして聖書物語を去ってしまうことになる。

 初めて聖書を読む人はもちろんのこと、長年にわたって信仰生活を送っている人でも、このようなショッキングな話をどう理解し、「聖書」としてどう受けとめればよいかについて、迷う人は少なくないと思う。その答えは決して簡単ではない。
 しかし、聖書の著者は、読者にただインスピレーションを与えるためにきれいごとを書いているわけではないのは確かである。聖書を貫く神の愛と憐れみは、様々なかたちであらわされ、語られてはいるが、同時に、罪に対する神の正しい裁きも語られているのである。現代人にとっては意外なことであるかもしれないが、19章に関して言うならば、ソドムの罪に対する神の裁きは当然なことして描かれているのに対して、これほど邪悪な町に住み着いた人が救われたことこそ驚くべき事実として描かれているのではないであろうか。

 さて、20章に入ると、12章の後半を思い起こすような展開となっている。アブラハムの妻サラは、再び異国の王のハーレムに迎えられてしまった。しかし、ある意味で今回はより危機的な状況である。というのも、神が約束した子はもうじきアブラハムとサラに与えられることになっているからだ(18章9〜15節を参照)。神のご計画はまた妨げられそうになっている。
 この苦境からもアブラハムとサラはきっと救われるであろうと普通の読者は期待するが、神がとった方法は裁きと憐れみとの両方が混合したようなもので、アブラハムを含め、誰もが想像することのできなかった方法なのである。
 詳細は聖書から直接読んでいただきたいのだが、「異国の権力者でさえ、神はその心を変えることのできるお方だ」「神は胎を閉ざし、神は胎を開くお方である」「アブラハムの神は必ず約束を成就させるお方だ」など、以上のようなことを確認し感動しつつ、旧約聖書物語の続きを読んでいただきたいと思う。


【信仰告白】

[2] 使徒信条