今日の箇所は、実にドラマチックな箇所である。古代イスラエルの読者は、ドキドキしながら祖父の昔話を聞いている孫のように読んでいた、あるいは読んでもらっていたであろう。彼らは、アブラムの寛大さ、英雄的行為、信仰などに驚きながら、自分と関係ないストーリーとしてではなく、アブラムの子孫として歩むべき道を再確認する機会となったことであろう。そして、アブラムに対する関心以上に、アブラムを召した神の誠実な導きに驚き、深く感動したことに違いないであろう。
現代の読者は想像力を膨らまして読む必要はあるかもしれないが、そのような姿勢をもって読むと得ることは多いであろう。
まず、13章において、一つの危機から救われたばかりのところで、アブラムは平和を求めてはいるとしても、自分の子孫である最初の読者の相続地を、ときには敵となっていたモアブ人やアモン人の先祖であるロトに譲るかもしれないという場面に遭遇している(19章36〜38節)。また、14章でも、同じロトのために自分の身を大変な危険にさらして、命がけの救出作戦も行っていたりしている。さらに、15章でアブラムは、自分から生まれていない異国人の僕に自分の全財産を継がせようとまで思っている。
しかし、そのつど、神がどのようにしてアブラムを誠実に導き、創世記12章2〜3節に記されている約束をより確かなものとし、その成就に向かって歩んでいるアブラムの一歩一歩を導いたのか、今日の箇所を読んで確認してみよう。
アブラムの肉親の子孫であった古代イスラエル人にしろ、アブラムの信仰の子孫、すなわち、イエス・キリストを信じる現代人にしろ、この物語は何よりも神の摂理や約束の確かさを示しているのである。たとえ善意によって生じる「損」(少なくてもその時はそう見える)を体験しても、様々な方向から攻撃されても、これでいいだろうかと思われる決断をしても、病や老いのために機能しなくなる体で悩んでいても、アブラムの神に信仰によって従う者には神のすばらしい約束が保証されている、ということは、この箇所から学ぶ大切なメッセージである。
今日も、使徒パウロの有名な言葉を覚えながら読んでいただきたいのである。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8章28節)。