10章は、系図をもって「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」(9章1節)と言われたノアとその3人息子が、いかに子孫を増やし、四方八方に散らばり、地を満たしたかということを記述している。そして11章の後半では、ノアの息子の一人であるセムからアブラムまでの系図や、アブラムの家族についての背景が短く記されている。
系図はカタカナ名の羅列のために読みづらいであろうが、聖書通読にチャレンジしている方には、辛抱強くこのような箇所の一字一句を発音しながら読んでみることをお勧めする。このようにして聖書物語に登場する民族、地名、人物に慣れ始めることは聖書を読み続けていくうえで大切なことである。
11章は、「バベルの塔」として知られている物語を通して、当時の「先進国」を代表するバビロン地方の技術や文化がどれほど発展していたとしても、まことの神を恐れないで、高慢で自己中心的な営みに専念している民は決して神に喜ばれない、ということを明らかにしている。また、11章前半と12章前半を比較しながら読むと実に面白い実態が描かれている。すなわち、神に逆らい、自ら有名になろうとした人は、神に敵対され、地上の国々に混乱をもたらしてしまうことになる。しかし、神に従い、神ご自身がその名を有名にしてくれる人は、地上の国々に祝福をもたらすことになるのである。
旧約聖書本番のストーリーはこの12章から始まると言っても過言ではない。特に、12章1〜3節に記されているアブラムの召しやアブラムに対する神の約束に注目していただきたい。ここは、旧約聖書のみならず、旧新約聖書全体の「筋」(プロット)を簡潔にまとめていると言われる箇所である。すなわち、これらの約束が成就するストーリーこそが、モーセ五書はじめ、旧新約聖書の主なメッセージであるということだ。
しかし、その約束が成就するのに多くの困難や脅かしが伴う、ということも最初から明らかになっている。12章の後半だけでも、自然界や権力者の欲望、妻の美しい外見や自分の判断、このままでは神の約束は守られないであろうと思われるような事柄が次々と記されている。これから先どうなるか分からない、というアブラムの観点と、自分たちもエジプトに下って不思議なわざによって救い出された者、すなわち、アブラムに約束された子孫である最初の読者としての観点から読むと、このストーリーの面白さが増していくばかりではないであろうか。
今日から始まるアブラハム物語を通読しながら、神に召されて歩む人は、人間の目において不可能に見えるどんな状況に置かれても、神の確かな導きを信じることができるということを目撃しながら読んでいただきたいと思う。
注) 11章に登場する「アブラム」と「サライ」の名前は、17章で「アブラハム」と「サラ」に変えられることになる。この「たすけ」では、それぞれの箇所に記されている名前にしたがって書いていく。