今日の箇所は有名なノアの箱舟の物語である。地は、神のかたちとして造られた人で満ちるはずであったが(1章26〜28節)、4章が描いているような嫉妬や憎しみのため、また6章の最初の数節が示唆しているような性的腐敗のために、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」(6章11節)のである。造られた目的から懸け離れた人間に対して、創造主なる神は心の痛みを覚え、大洪水によって人を「地の面から消し去ろう」と決める。
現代の読者にとっては、神が決めた裁きは厳しくて、驚くべき刑罰のように見えるかもしれない。しかし、今日の箇所においては、創造主の裁きはふさわしくて、当然な対応として描かれている。聖書の観点から言うと、逆に驚くべきことは、これほどまで堕落した世界に「主の心にかなっていた」「正しい人」がまだいたということなのである(6章8〜9節)。
神はまるで地を洗い流し、人間社会を含む世界を再創造しているかのように話しは展開していく。しかし、人間の心についての評価はどれほど変わったことであろうか。この問いを考えながら、特に6章の前半と8章21節や9章の後半とを読んで比較してみよう。
また、9章の後半を読む際に、神に良くしていただいた直後に恥ずべき行動をとったアダムとエバやカインのことを思い出し、聖書に描かれつつある人間像は何か、そのような人間に対して神はどのような対応をしているかについて考えながら読んでみよう。
ノアの箱舟物語は、絵本などで単独の物語として読んだ人が多いかもしれないが、創世記1章から始まる天地創造物語(特に、1章1節〜2章3節)を思い出しながら、6〜9章を読んでみたい。実に、今日の箇所は卓越した言葉遣いによって、何度も天地創造物語にさりげなく言及している。聖書注解書などには様々な言及についての詳細を読むことはできるが、聖書通読の楽しさの一つは、読者が自らそれを発見することではないであろうか。