第1日曜 創世記1章〜3章



【祈り】

[1] 主の祈り

【はじめに】

 現在私たちが手にすることのできる聖書が存在する前に、モーセ五書があった。というのも、古代イスラエルにおいて初めての「聖書」とは、旧新約聖書ではなく、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記という5つの書によってだけ構成された「モーセ五書」であったからだ。これから1週間にわたりその最初の20章を通読する。これから読む創世記を旧新約聖書全体の冒頭として読むことが大切であるが、まずはモーセ五書の序言として読んで理解することを試みよう。
 モーセ五書は天地創造から始まり、創造主が与えた地に入ろうとしているイスラエル民に対するメッセージとモーセの死についての記述で終わっている。その間に展開する物語をこれから3ヶ月にわたって読んでいくわけだが、初めにこれだけ押さえておきたい。モーセ五書の冒頭として創世記を読むということは、エジプトから救い出され、自分たちに約束された土地に入ろうとしている、あるいは、入ったばかりの民の視点から読むということである。それができたら、それ以降の様々な時代の視点から考えることも有意義になると思う。

 どの視点に立って読むにしても、聖書やその時代背景等についての知識があればあるほど助けにはなるだろう。また、それと等しく必要なのは健全な好奇心と想像力である。「今読んでいる聖書箇所は何の問題への答えとして書かれたのか」「最初の読者にとってこの箇所のメッセージはどんなに画期的だったのか」「この箇所を読むことによってこの書や聖書全体の理解がどう深まるのか」「この箇所によると、神はどのようなお方なのか」「今日のみ言葉は人間のどのような問題、どのような必要を扱っているのか」 このような疑問を促し、最低限のキーポイントを読んでいただきながら、旧約聖書の通読を始めていただきたい。

 聖書を読むことは、宝探しのような体験だと思う。期待感を持って読み探す人には次から次へと驚きの発見があり、貴重な宝を見つけ出すことができる。探すべき宝を他人に見つけてもらうよりも、自分で見つけたほうが楽しいし、「自分の宝」になる。だから、この「聖書通読のたすけ」の目的は、読者のために見つけうる宝を見つけ出し、そのすべてを解説することではなく、宝の隠された場所や探し方について多少のヒントを与えることである。何れにせよ、解説を読むのに時間を費やすよりも、聖書を読むことに時間を費やすことが望ましい。


【聖書通読のたすけ】

 天地創造とアダムとエバの物語はただ単に過去の出来事を記すために書かれたわけではない。ましてや、自然科学の教本として書かれたのでもない。これらのストーリーが聖書に含まれたのは、とても実践的な理由があったからだ。例えば自分が「ヨシュアに従って約束の地に入ろうとしている古代イスラエル人」だと想像してみて読んだらどうだろうか。
 一神教がまだ十分に定着していないイスラエルの民から見れば、長年暮らしていたエジプト、東にあるメソポタミア、これから入って行くカナン、どこを見ても自分たちよりも文明が進んでいて、古くからその神々が周りの民を繁栄させているように見える。そして特に、所有するようにと言われているカナンの恐ろしい神々によって守られている民に対して、このちっぽけな自分たちは、いったいどのようにして立ち向かうことができようか。そのような心配をしているイスラエル人にとって、すなわち、不可能に見える状況に遭遇し、自分たちが信じている神の力や自分たちに課せられている任務等に関して不安を覚えている人の目には、創世記1〜2章がどんなに良い知らせで、どんなに実践的な「福音」であろうか。そのようなニーズを想像しながら読んでみよう。

 読みながら様々な読者の視点を考慮すると同時に、聖書の記述自体が様々な視点から書かれていることにも注意する必要がある。それは、今日の箇所に見られる文学技巧の一つである。
 「創造物語」は2章3節で一旦幕を閉じていて、2章4節から改めて違う観点から語られている。創世記1章1節〜2章3節と、2章4節以降のストーリーの特徴を味わうのに、特に「神」、または「主」が主語となっている動詞を比較して見るとよいであろう。一方では、神はすべて超越していて、尊厳を帯びているように描かれている。他方では、神はこの世界に内在していて、人に近い存在として描かれている。聖書著者がこの2つの観点から語ることによって、実に神は両方だ、という奥義がイスラエルの民にも現代の私たちにもはっきりと、聖書の冒頭から教えられているのである。

 さて、3章では早速「人間の堕落」として有名な話へと展開していく。これもまず、神の約束した地に入ろうとしているイスラエル人の立場から読んでみたい。
 天地を造った神の民であるのに、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ」という最初に与えられた命令(1章28節)が、なぜこんなに難しいことになったのか。すなわち、自分はなぜ死すべき存在になっているのか。神と人間の間にも、人間同士の間にも、人間と土地の間にも、大きな隔たりがなぜできてしまったのか。神に対する不従順(罪)にはどのような代価があるのか。
 古今東西、そのような実際問題を抱えている人々に対して、3章はどのように答えているかについて考えながら読んでみよう。


【信仰告白】

[2] 使徒信条