第51土曜 黙示録15:1-16:11



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 今週も最後の日を迎えました。明日の礼拝の日に備えて、いかがお過ごしでしょうか?
 私たちは今週ヨハネの黙示録を読み進めてきましたが、そこでは神様の徹底した裁きが語られました。私たちが読んで身震いするほどの容赦ない神様の裁きが語られてきました。しかし、15章1節にもありますように、いよいよ、「最後の7つの災害」がもたらされようとしています。そして、「神の激しい怒りはここに窮まる」のです。
 15章5節からは、遣わされた7人の御使いたちが、最後の災害を下すために7つの金の鉢を受け取ります。最後の災害が下されるまで、裁きがなされる聖所には誰も入ることができません。つまり、問答無用の神様の裁きなのです。私たちにはまだ、キリストを信じていない友人や知人がいる。さらには、愛する家族さえもいる。だから、裁きを伸ばしたり止めるように、などという人間的な思いがあっても、ただ神様の裁きがなされるのです。

 それでは、私たちにとって裁きとは一体何なのでしょうか?神様は愛のあるお方のはずなのに、恐くて、残酷で、容赦ない、という、私たちにとって躓きを覚えるようなことなのでしょうか?そのようなことはないのです。
 15章3節からは、神を信じるキリスト者の歌が歌われます。その歌の内容は、神様への賛美なのです!神様の御業を賛美し、その御名をほめたたえているのです。それは、神様の正しい裁きが明かにされたからでした。
 キリストを受け入れない人々への神様からの滅びの裁きは終末の時になされますが、神様は何も人を滅ぼそうとして災いを下すのではありません。キリストはその腸がちぎれるほどに、私たちを憐れんで愛して下さいました(マタイ9章36節)。ですから、たとえ、今は信じなくても、神様がその人を見捨てているということは決してないのです。神様はあくまでも、災いを通して、罪深い人間が自分の愚かさに気づいて神様を信じるように、最後の最後の終末の時まで、災いを通してさえ罪人を招いておられます。私たちには信じがたい愛です。だからこそ、私たちは神様が下される災いすらも賛美するのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条