第51金曜 黙示録14:1-20



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 教会が激しい迫害を受けているさなか、小羊であるキリストがシオンの山に立っています。小羊に贖われた者たちによって、御座の近くの4つの生き物と長老たちの前で新しい歌が歌われます。贖われた人たちは、汚されたことのない童貞の人たちです。つまり、神様以外の偶像を決して礼拝をしない、偽りがなく、傷のない、聖なる者たちです。天国を思わせるような情景が描かれます。

 しかし、やがて天使が飛んできて7節で「神のさばきの時が来た」と告げます。神様以外の偶像を礼拝する者たちに対して、神の怒りのぶどう酒が神の怒りの杯に注がれ、神様の容赦ない純粋な裁きがなされます。また、火と硫黄の永遠に続く苦しみの煙が立ち上ります。
 まだ終わりません。16節にもありますように、人の子であるキリストが地にかまを入れると、地はたちまち刈り取られます。さらに、御使いが、刈り集めたぶどうを酒ぶねに投げ入れて踏むと、その血は果てしなく続くのです。

 私たちも、日々、神様から遣わされているそれぞれの場で、このような滅びの裁きに至る誘惑に向き合っていることを覚えたいと思います。ですから、私たちの歩みは忍耐が求められます(12節)。しかし、私たちはとても聖なる者ではなく、これに忍耐することのできない愚かな罪人です。すぐに、神様以外のものに心が揺れ、いつの間にかそれを拝むことすらしてしまうのです。
 ですから、私たちは、小羊であるキリストの永遠の福音を受けている、ただそのことのために、聖なる者なのです。永遠の福音なのですから、この地上だけのことではありません。やがて、私たちが主の御国に凱旋するとき、私たちは小羊の御座の前で新しい歌を歌って神を賛美するという、私たち罪人には想像もできないほどの、言い尽くし難い恵みを受けるのです。だから、永遠の福音なのです。この福音に支えられて、私たちは地上の迫害のある歩みを忍耐を持って喜びつつ歩みます。
 そして、そのように生きる私たちに「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」との天からの声があるのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条