今週も引き続きヨハネの黙示録を読み進めていきたいと思います。私たちは今日それぞれの教会で礼拝をささげます。では、私たちの礼拝の目指すところはどこでしょうか?私たちは何の目的もなく、ただ毎週礼拝をし続けているのでしょうか?そのようなことはありません。私たちの目指すところは、やがて、天の御国で永遠にキリストを礼拝することです。ですから、今私たちが毎週ささげている礼拝は、主の御国における天上の礼拝の幸いを覚えるときでもあるのです。そして、このような天上の礼拝の恵みが黙示録には描かれています。
けれども、このヨハネの黙示録にはキリストを受け入れない人々に対する神様の裁きも言われているのです。しかも、それは神様の徹底的な裁きであるわけです。今週の個所でもそのことが言われます。
これまでは、6つの封印が解かれて神様の裁きがなされてきました。それは「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう」と言われるほどのものでした。7つ目はさぞかし凄まじい裁きが・・・、と私たちは思うかもしれません。しかし、以外にも小羊が7番目の封印を解いたとき、そこにあったのは半時間ばかりの静けさでした。悪人たちがホッとしたのも束の間、今度は7つのラッパを持つ7人の天使たちが現れて裁きがなされます。
血の混じった雹と火が投げつけられて地上が焼ける、山が海に投げ込まれて海が血だらけになる、大きな星「苦よもぎ」が落ちて川の水が苦くなりそれを飲む人が死ぬ、太陽・月・星が打たれて暗くなり昼も夜のようになる。まるで、神様が出エジプトでモーセを通してエジプトに与えた災いを思い起こさせるかのような裁きです。
5番目の天使のラッパによっていなごが登場します。このいなごは、額に神の印を押されていない人間、つまりキリストを受け入れない人間にだけ災いを加えるよう言い渡されていました。このいなごは人に苦痛を与えるのですが、決して人を殺すことはありません。しかし、死に至るほどの苦しみを人々に与え続けるのです。あまりの苦しさにもう死にたい、そう思っても死ぬことができないのです。
額に神の印を押されている私たちは、主の裁きが今この世にもなされていることを覚えながら、また、裁きをなさる主の確かな正しさを覚えながら、今週1週間もそれぞれの場でキリストを証ししたいと思います。