9・10節、「新しい歌」とは、贖いの歌と呼ばれます。新しい歌とは、救いの新しさ、啓示の新しさ(封印が解けた)、賛美の新しさを意味しています。小羊キリストへの賛美は、いつになっても古びることはありません。創造の業において神様が本来意図していたことが完全に回復した姿を見ての讃歌です。「あらゆる部族、国語、民族、国民の中から」選ばれた人々に及ぶものです。すべて、神の栄光を現すためでした。11・12節、「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美」は、小羊キリストのご性質を表し、賛美しているのです。13・14節、全被造物の生き物が告白し賛美し合唱した言葉でした。
1・2節、小羊キリストが第1の封印を解いたときにヨハネが見たものは、「白い馬」と「それに乗っている者」でした。「弓」は武力、「冠」は支配の象徴であり、「勝利の上にさらに勝利」とは、権力欲を示すものです。
3・4節、第2の封印が解けたとき見えたものは、「火のように赤い馬」です。これは、人々が流血の惨事を引き起こすことを暗示しています。しかし、「許された」という言葉から考えられることは、「神様の許可される範囲内で」と理解できます。
5・6節、第3の封印が解けたとき見えたものは、「黒い馬」と「これに乗っている者」でした。「黒い馬」は飢饉が迫っている意味で、乗っている騎手は「量り」を持っていました。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ」とは、飢饉のため物価上昇の様子を示しています。
7・8節、第4の封印が解けたとき見えたものは、「青ざめた馬」と「これに乗っている者」です。この馬の騎手の名は「死」と言い、それに「ハデス」(陰府)が従っていたのです。なんと、おぞましい光景でしょう。しかし、彼らの影響力は地上の4分の1と制限されていたのです。
9〜11節、第5の封印が解けたとき、殉教者たちの魂が祭壇の下に見えたのです。彼らは、「さばき」と「復讐」を大声で叫び求めています。これは、決して個人的な憎しみからではなく、不法な苦難を受けたことに対する神様の主権的裁きを求めるものです。
12〜17節、第6の封印が解けたとき、天変地異、自然界の激変が起こりました。イエス・キリストご自身が再臨との関連で語られたことと良く似ています。この最後の審判が来ると、「だれがそれに耐えられよう」と言われるほどに悲惨極まりないのです。