キリストは、フィラデルフィヤの教会には7節にあるようなお姿で現れてくださいました。御国の門の鍵を持つ方として。
8節、慰めの御言葉です。「少しばかりの力があって、・・・わたしの名を否まなかったからである」とは忠実な小さな教会を意味しています。9・10節、これから全世界に来る迫害のとき、サタンの会衆に属する者、つまり偽キリスト者たちはあなた方にひれ伏すことになり、フィラデルフィヤの教会がキリストを愛していたことが証明されるというのです。なんという励ましでしょう!11節、あなたの「いのちの冠」をしっかり握っていなさいと。12節、「聖所の柱」とするとは、神様ご自身のご臨在に一番近い所の柱とするという意味。また、キリスト者は「新しいエルサレムの名」と「わたしの新しい名」が与えられるのです。さて、私たちはどのような名前が与えられるでしょうか?楽しみですね。第一級の忠実さが認められた教会であっても同じ言葉が与えられました。13節、なぜなら目指すところはどの教会でも同じだからです。フィラデルフィヤの教会は、御名を否まない忍従の教会として高く評価されています。
キリストは、ラオデキヤの教会には14節にあるように「アーメンである方、忠実で、真実な証人」である方として現れました。
15・16節、「あなたは、冷たくもなく、熱くもない」というキリストの評価はどのような意味でしょうか?16節を見ると分かります。「わたしの口からあなたを吐き出そう」と。つまり、中途半端で使い物にならないので吐き出そうというわけです。17節、何も問題もなく、迫害もない。自分たちは豊かで富んでいると思い込んでいるラオデキヤの教会。なんと惨めで、哀れで、貧しい状態でしょうか。迫害がないということは、サタンが興味を示さないほど堕落した教会という意味です。18節、しかし、キリストは見捨てることなく忠告します。「金」「白い衣」「目薬」をわたしから買いなさいと。この高価な物をキリストから「買いなさい」とは、19節の「熱心になって、悔い改めなさい」との意味です。20節、ラオデキヤの教会はキリストを教会から締め出してしまったのです。もう一度、悔い改めてキリストを迎え入れるならば、寛大にもともに食事をしてくださるというのです。21・22節、キリストは「わたしとともにわたしの座に着かせよう」と言われます。なんというあわれみでしょう!ラオデキヤの教会は、神様の愛の交わりに招かれた教会だったのです。