テアテラの教会には、「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような」(18節)姿でキリストは登場されました。
19節のお褒めの言葉は感謝です。しかし、20節の非難が続くのです。イゼベル主義とは、不品行・偶像礼拝を黙認、妥協することでした。これに対して、キリストの「死病によって殺す」(23節)との恐ろしい裁きの宣告があります。続いて、23節にあるように内面をいつも見ておられることが分かります。24・25節の御言葉には慰められます。「ほかの重荷を負わせない」(24節)、「わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい」(25節)と、慰めと励ましの言葉をかけてくださるのです。そして、キリストはテアテラの教会に、「最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう」(26節)、また、「明けの明星を与えよう」(28節)と約束されました。つまり、諸国の民を支配する権威とは、神の御子キリストが「わたしと同じである」(27節後段)と言われたとおり、キリスト者すべてが御子と同じ支配の権能を持つ者となるのです。さらに、「明けの明星」とは、明確には分かりませんが、権威の象徴でしょう。それは、当時の地上の最高権威・ローマ皇帝に対して、キリストの権威の栄光を指しているのでしょう。テアテラの教会は、キリストのわざを守る教会として歩んでいたことでしょう。
サルデスの教会には、「神の七つの御霊、および七つの星を持つ」(1節)お姿でキリストは現れてくださいました。
しかし、手厳しい言葉を初めにかけられます。「実は死んでいる」とは、サタンさえ見向きもしない生命を失った教会になってしまったというのです。これは深刻です。3節三段、キリストが「目覚めよ!」と警報を鳴らし続けておられる間に起きなければいけません。サルデスの町は、手織物を染める技術で有名でした。4節、サルデスの教会に幾人か信仰がほめられる兄弟姉妹がいたようです。5節、この御言葉は大きな慰めです。最後に6節です。サルデスの教会の回復は望みがあります。キリストは、白い衣にふさわしい教会になって欲しいと願っていたでしょう。なぜなら、「右手に七つの星(牧師)を持つ方、七つの金の燭台(信仰者の群れ)の間を歩く方」(2章1節)のキリストのお姿があるからです。サルデスも七つの教会の一つです。