キリストは、エペソの教会には「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」(1節)という姿で登場されます。また、キリストは教会ごとに異なった姿で登場します。これもまた黙示文学の難しさでしょう。
2・3節の御言葉には慰められます。このような言葉をキリストからかけられるとホッとするでしょう。公正な信仰の評価をされるのですから、キリスト者としては嬉しいものです。4節、一転して厳しい評価が下され、もう一度、十字架の愛を再度認識するための悔い改めが迫られるのです。6節、神様は厳しさだけでは終わらず励ましてくださるのです。7節、この御言葉を聞くと人間が罪を犯した創世記3章を思い出します。つまり、勝利を得る者とは、永遠のいのちを得る者であり、信仰に留まる者であると言いたいのです。エペソの教会は、愛の光を放つ教会を目指していたのでした。
スミルナの教会には、キリストは「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方」(8節)としての姿で登場されました。
そして、9節の御言葉は慰められます。世の中が認めずとも、確かに神様の恵みを受けているのです。10節、迫害そのものは、悪魔の仕業であるとキリストは語っている。そして、スミルナの教会に「死に至るまで忠実でありなさい」(10節三段)と激励の言葉が与えられます。いのちの冠への道は厳しい道のりです。確かに、狭い道でもあるのですから。そして最後に、11節、つまり、この世で迫害され殉教し、第一の死(肉体の死)を迎えても、キリスト者は決して第二の死(永遠の死)によって命を失うことは絶対にない!と保証する御言葉です。スミルナの教会は、死に至るまで忠実な教会であろうとしたのでした。
キリストは、ペルガモの教会には「鋭い、両刃の剣を持つ方」(12節)としての姿で登場されます。
「忠実な証人アンテパス」は、おそらくこの地方では初めての殉教者だったのでしょう。そして、教会もキリストに対する信仰を捨てなかったことを評価されています。しかし、14・15節は非難でした。しかし、彼らと戦うのはキリストです!16節、外は迫害、内には腐敗と厳しい戦いのなかに置かれていました。そんなとき、キリストは教会に17節の2つの約束を与えられました。つまり、1つ目の「隠れたマナ」とは、キリストにある永遠のいのちを意味し、「白い石」とは御国への入場許可書を意味し、その許可書に一人ひとり確かに名前が書かれていると、新天新地(21章)・御国に入ることができるというのです。ペルガモの教会は、2つの約束に支えられて新天新地を目指していたのです。