自分のふがいなさに愕然とすることがしばしばあります。それは自分の罪だったり、弱さだったり、染み付いた習慣だったりします。
ヨハネは「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」(3節)と言います。私たちは自分を清く保つために罪との決別を宣言し、そのための最善の努力をすることが求められますが、自分を清くするものは自分の努力ではなく、キリストの流された血潮です。キリストが清いお方であるゆえに私たちは清くされるのであって、キリストによってでしか清くされることはないのです。
私たちは罪との格闘を繰り返し、その都度敗れてきたものです。もうしまいと心に誓ったことが何度となく破られてきました。その度に落胆し敗北感に襲われて、自分の救いの確信までも脅かされてきたかもしれません。
「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません」(6節)とありますが、「彼のうちにとどまり続ける者は、罪を習慣的に犯し続けはしません」という意味であり、キリストを受け入れた後も罪を犯し得るが、それは例外であって原則ではないのです。自分の過失や弱さ故に犯してしまう罪を、キリストの血潮は確かに赦して清めてくださることがここで約束されているのです。だから悪意を持って意図的に犯した罪とは区別されて考えるべきと言えるでしょう。そして自分の弱さを正直に打ち明けて悔い改める者にされましょう。