「善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」(15節)。自分を守るためにことば数が多く、摘んだと思っていたねたみが日々わき起こる私たちにとって、何とまっすぐな勧めでしょうか。
神に喜ばれるのは、楽な道を「感謝、感謝」と行って通り抜けるのではなく、試練の途上で「主よ、主よ」とみこころを求め、行っていくことです。どれほど不当だ、不公平だ、不平等だ、割に合わない、と分かっていても、「神の前における良心のゆえに」(19節)そうし続けなさい、ときっぱり告げています。
また、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(13節)ともあります。私たちは、神の前の良心、「主のゆえに」という姿勢を崩してしまっては、どうにもならないのです。これは、いくら「合理的に物事を進めたい」、「政治こそ改善しなければならない課題だ」と最もらしく主張してみても、「主のゆえに」従うとはどういうことなのか、考え抜く必要があるということではないでしょうか。
そして、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15章5節)と言われたキリストのお心を受け取る者でありたいと思います。私たちにその「足跡」(21節)を残してくださったキリストは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せに」(23節)なられました。それは、「私たちが罪を離れ、義のために生きるため」(24節)です。私たちは「羊のようにさまよって」(25節)いたところから、まことの牧者であり監督者である主イエスのもとに帰ったのですから、このお方にこそ聴き従うべきです。
ペテロは、裏切った自分をしもべとして召してくださったイエス・キリストだけを誇りとし、主に従うことの絶大な価値に自分を投じていました。私たちも、いさぎよく主に従うしもべでありましょう。なぜなら、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めて」(IIコリント1章4節)くださるからです。