1章の結びでは、「神のことば」の確かさ、偉大さ、永遠、不変、力というものを忘れないように、とまとめています。ここで私たちは、同時に、神のことば以外のものは、まるでそうではないことも自覚する必要があります。慕い求めるべきものは「純粋な、みことばの乳」(2章2節)であり、救いに至るまで成長し続けなさいと、いっときの油断、猶予、怠慢も許さないように鋭い勧めをしています。
そのためには「すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨て」(1節)る覚悟を伴った生活が基盤となります。悪い木からは悪い実しか取れないのです。同様に、悪い考えやごまかしも人間ならば仕方なし、といった土台に築かれた生活には、それなりのものに留まってしまうことでしょう。
私たちは、いつも「主のもとに来なさい」(4節)と言われているのですから、安心して、まっしぐらに主のもとに参りましょう。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章37〜38節)のですから。
「そんなこと言っても難しい」、「分かってはいるけれど現実はそれどころではないでしょう」とくだを巻いている暇などありません。「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(マタイ11章6節)。主を信じる私たちは、誰が何と言おうと、自分でこのくらいの者だと値踏みしようと、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(9節)なのです。これは、はっきりと神さまによって語られていることばで、私たちが自分の立場をしっかりとわきまえるように、目を覚まさせるようなみことばです。
私たちは「やみの中で救われたのではありません」(C. H. スポルジョン)。そうではなく「やみの中から」(9節)救われたのであり、この世にあって輝くべきすばらしい福音の光を宣べ伝えていく使命をいただいているのです。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」(マタイ5章13節)
― 主にのみ、従う ―
この一事において、私たちは勇敢でありましょう。