主の弟子、ペテロが初めに記したのは、「イエス・キリストの使徒ペテロ」ということばでした。ペテロという語が最初に来ており「あのペテロが、キリストのしもべ」であることを知ってください、と強調しているようです。かつて湖上で、「もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(マタイ14章28節)と懇願したペテロが、今や各地の教会を励ます力強いことばを伝えようとしているのです。
それは、彼が「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5章29節)という信仰を確信しているからでした。その確信とは、ペテロ自身が強かったのではなく、鈍く悟らぬときも、勇んでしゃしゃり出たときも、弱って裏切ったときも、もう一度漁師に戻ったときも、実にその生涯のすべてにわたって、イエス・キリストご自身からペテロに近づき、声をかけ、信頼し、導かれたゆえに与えられたものでした。
今やペテロは、自分よりも確かな存在にゆだねて生きていました。それこそ「新しく生まれさせて、生ける望みを持つように」(3節)されたすばらしい生涯の道筋ではないでしょうか。しかもその信仰は初めから終わりまで「神の御力によって守られて」(5節)いるのです。
きょうも、私たちの「信仰がなくならないように」(ルカ22章32節)、とイエスさまご自身が祈ってくださっています(ローマ8章34節)。私たちの信仰には堅固な後ろ盾が備えられているのです。信仰は孤独な戦いなのではなく、むしろ「主がその手をささえておられる」(詩篇37篇24節)確実な助けのある歩みです。「信仰と希望は神にかかっているのです」(21節)、とこれほど大胆で定かな保証はありません。しかし、その信仰には、「しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならない」(6節)と、ことわりがされています。それでも「イエス・キリストの現れ」(7・13節)を待ち望み、「恐れかしこんで過ご」(17節)すのです。
釘で打たれた手を広げ、槍で突かれた脇腹を持ったイエス・キリストとお会いする日、私たちも信仰の試練によってしっかりと精錬され、この世のむなしい生き方が払拭された姿で相まみえたいのです。
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139篇23〜24節)