人生の終わりの日に、「殺される日にあたって自分の心を太らせました」(5節)との宣告を受けたらどうでしょうか。これほど悲惨で、むなしい結末はありません。
たとえ金持ちやぜいたくな暮らしばかりをしてきたわけではなくとも、腐った富、虫の食った着物、さびた金銀(2〜4節)を持ってはいないでしょうか。繰り返しみことばを聴いてもぼんやりとして応答もせず、神の友と世の友との間を行ったり来たりしていないでしょうか。なすべきことを知っていながら手をつけず、「それは、もっと力ある人がやるべきことだ」、「あす、すれば済むことだから」と思い上がってはいないでしょうか。これらはすべて終わりの日に「責める証言」(3節)となって自分に返ってきます。
私たちは、いつも、主の御前に立つ日を覚えて、きょうを生きるべきだ、と迫るのです。また、高ぶった人々の生き方につまずいて信仰の道からはずれてしまうことのないように、とも続けます。「さばきの主が、戸口のところに立って」(9節)おられる緊迫感は、皆が等しく持つべきことだからです。他人のためだけに用意された警告ではありません。
そのためには「耐え忍び・・・心を強くし」(8節)ていなければなりません。信仰生活には、忍耐がどうしても必要なのです。あらゆるときに主の救いの希望を失わず、苦しんでも神を疑わずに祈り、喜んでも神を忘れずに賛美し、教会を中心とした交わりを続けるように励まします(13〜16節)。聖書のみことばには力があります。ただ書き残されているだけでなく、約束されたことが実現する力があります(17〜18節)。力が萎え、信仰の弱ってしまった者を顧み、互いの完全な救いのために励む人は幸いだと告げて、ヤコブはこの手紙を閉じています。
私たちひとりひとりが、みことばを熱心に聴き、忠実に従い続ける者でありますように。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(Iコリント13章7節)と約束されている愛の道からはずれることのありませんように。「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」(1章21節)