第47火曜 ヤコブ4:1-17



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」(2節)
 これほど、主が悲しみと警告を持って宣告しておられる衝撃的な箇所はないのでは、と思えるほどです。ある箇所では「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになる」(ヨハネ15章16節)と約束されているにもかかわらず、です。

 私たちの欲望、快楽、悪い動機というものがどれほど天からの祝福を差し止めるものとなっているのでしょうか。私たちは、自分が原因となって引き起こしている戦いや争い、疲弊や霊的貧困が、いかに身の回りにまとわりつき、からだの中から燃えさかっているのか、考えてみたことがあるでしょうか。
 しかし、こうした罪、戦い、悲しみは、神を愛するがこそ、見えてくるものではないでしょうか。神を愛し始めるからこそ、罪との戦いに苦しむのではないでしょうか。「神のみこころに添った悲しみ」(IIコリント7章10節)こそ、信仰者が経験するよう勧められている悲しみです。いたずらに「笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」(9節)と命じているのではありません。私たちが求めるべき祝福は「悔いのない救い」であるはずです。

 ですから、私たちに必要なのは「神に近づきなさい」(8節)とのみことばを聴くことです。また、「神に従いなさい」(7節)とのみことばのとおりにすることです。主イエスに出会って、癒された人々、祝福された人々、力強いみことばをいただいた人々は皆、主イエスに近づいた人でした。彼らは、イエスさまの足下にひれふし、イエスさまの着物のふさをさわらせてくださいと願い、イエスさまのあわれみを請い、イエスさまにひたすらに叫び求めた人でした。
 私たちも、たえず「主のみこころなら」(15節)というへりくだりと真剣な求めを抱いて、「なすべき正しいこと」(17節)を行う者でありたいと願います。「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10)


【信仰告白】

[2] 使徒信条