「私の兄弟たち。・・・人をえこひいきしてはいけません」との勧告で2章は始まっています。こう書かれたのは、実際に教会の中である者は優遇され、ある者はないがしろにされている問題があったからだと分かります(2〜4節)。教会に来てまで、この世の基準でさばかれる、人間臭い目で見られる、排他的な空気が漂っているのであれば、それは非常に残念なことです。「自分たちの間で差別を設け」(4節)ているのは、主の教会に似つかわしくない現状です。
私たちが常に、思い巡らさなければならないのは、「神が、あえて私を選んでくださり、天の御国を相続させてくださるのだ」という信仰です。なぜなら、「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る」(13節)のだからです。
私たちは、神のあわれみによって、罪のさばきから救われるのです。誇るべきは、救われた自分ではなく、救ってくださる神のみです。神を恐れること、すなわち、この世のすべてをさばかれる唯一の神がおられることは、「悪霊どももそう信じて、身震いして」(19節)いるほど恐ろしいことです。しかし、私たちはさばかれる神を恐れるだけでなく、それ以上に、あわれみ深い神を信じる必要があるのです。神のそのあわれみこそが、私たちを生かすのです。
ですから、あわれみがなければ滅ぼされるよりほかない私たちに、他人をさばく権利は持ち合わせていません。あわれみによって生かされている私たちが、あわれみのない行いによって他者をさばくことほどおかしなことはないからです。
ルカの福音書10章で強盗に襲われた人を、祭司もレビ人もサマリヤ人も確かに見ました。しかし、「かわいそうに思った」(「あわれみ」と同じ言葉)のはサマリヤ人ひとりだけでした。あわれみを感じ、示すことのできる人は多くはありません。今こそ、私たちの中から「私の信仰をみせてあげます」(18節)と大胆に進み出る人が求められています。もし「誰かがやるだろう」、「誰かに続けばいい」、「もう少し時が迫ったら動こう」とつぶやくなら、その人の信仰は死んでいるのです。
どうか、この手紙を受け取っている私たちが、いつでも、どこでも「栄光の主イエス・キリストを信じる信仰」(1節)によってえこひいき、嗜好、偏見、怠惰の壁を越えて、信仰に富み、天に宝を積む道を歩むことができますように。