17節以降も、旧約聖書の時代の人々の信仰が記されています。
信仰によって、アブラハムはイサクをいけにえとしてささげました(17〜19節、参照:創世記22章1〜14節)。神の約束を長い間信じ、待ち続けてようやく与えられたそのイサクをです。
また、イサクも、ヤコブも、ヨセフも、自分の死を前にして、自分では実現できなかった「約束の地に入る」「大いなる国民になる」という神の約束が必ず実現すると信じ、希望を抱いて死に臨みました。それぞれ、そのことを信じて、祝福の祈りをささげています(20〜22節)。
モーセは、パロ(ファラオ)の娘の子という地位を捨て、神の民とともに生きることを選びました(23〜29節)。
人々の信仰によって、エリコの城壁は崩れました(30節、参照:ヨシュア6章1〜20節)。
遊女ラハブは、偵察に来た人たちを受け入れ、かくまったので、他の人たちとともに滅びることはありませんでした(31節、参照:ヨシュア6章25節)。
その他にも多くの信仰者たちの姿が、聖書には記されています。また、名前が記されていない信仰者たちは、もっと多くいることでしょう。名前が記されていない多くの信仰者たちも、困難のとき、神から離れることなく迫害に耐え、ときには命さえも惜しまずにささげてきたのです。
私たちは、名前が後世に残されるようなことはないかもしれません。しかし、今までの多くの信仰者たちがそうであったように、ただ神の約束を信じて、困難なときでも、信仰を堅く握って歩んでいきましょう。