本物とそのレプリカとを比べるならば、本物がよりすぐれたものでしょうし、レプリカはその質を本物により近づけようとするものです。地上の聖所は、天そのものの模型であって、本物ではありません(9章24節)。キリストは、その本物の天に入られました。完全な贖いを、贖いのわざを完成させたので、繰り返す必要がありません。ですから、キリストが二度目に来られるのは、再び十字架にかかるためではなく、待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです(28節)。
それと同様に律法も、後に来るすばらしいものの影であって、完全にすることができないものです。律法によって罪をきよめられるのではありません。律法は、人々に罪を思い出させ、罪の意識を生じさせるだけなのです(3節)。
10章5節〜7節に詩篇40篇6〜8節が引用されています。律法の規定通りにいけにえやささげものがされても、主の満足を得ることはできません。なぜなら、律法は完全ではないからです。しかし、キリストがみこころを行うことによって完成するのです。心に置かれ、思いに書きつけられる律法が、石に刻まれた古い律法に変わる、完全な律法なのです。キリストを信じる者の心には、新しい律法が刻まれているのです。その律法に耳を傾けていますか。「もはや決して彼らの罪と不法を思い出すことはしない」(17節)