アロンをはじめとする一般的な大祭司は、罪のためにいけにえをささげますが、民のためだけでなく、大祭司自身のためにも、罪のささげものは必要です。そして、その職は上からの、神様からの召しによるのです(1〜4節)。
イエス・キリストも同様に父なる神によって大祭司となる栄誉を得られましたが、ご自身のために罪のささげものを必要としない大祭司なのです。メルキゼデクの位に等しい祭司なのです。メルキゼデクとは、律法が与えられる前の創世記14章で、アブラハムが十分の一をささげた神の祭司です。へブル書のなかでも7章でより詳しくとりあげられていますが、非常に興味深い人物です。そのメルキゼデクの位に等しい大祭司として、キリスト・イエスのことが語られるのです。そのキリストは神の御子であられるのに、多くの苦しみによって従順を学び(8節)、完全な者とされ、とこしえの救いを与える者となられました(9節)。今までの大祭司とは違う、キリスト・イエスの特異性がはっきりと示されています。メルキゼデクの位に等しい大祭司となられたキリスト・イエスによって、いけにえをささげる必要がなくなったのです。なぜなら、一時的なものではなく、とこしえの救いが与えられているからです。
クリスチャンにとって、このキリスト・イエスを知り、知って成長することは、子どもが成長するのと同じくらい自然なことです(11〜14節)。私たちは成長していますか。良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されていますか。キリストをますます知り、キリストとともに歩む経験によって訓練されていく、と聖書は教えています。