第44水曜 ピレモンへの手紙



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

『お帰りオネシモ』

【1〜3節】 挨拶

 パウロはローマで投獄されていました、獄中からの手紙です。この手紙はピレモンとその家族、そしてオネシモの逃亡を知っているであろう家の教会のメンバーに宛てて書かれたものです。公同書簡にあるような堅い挨拶ではない書き出しが特徴です。とは言え、「キリスト・イエスの囚人であるパウロ」という書き出しは受取人にとって、イエス・キリストの御名によって迫害を受けているパウロを思い逆に説得力を感じさせます。
 ピレモンとその妻アピア、そして息子であるアルキポと考えるとき、ここに一家を挙げて主に仕える家の教会の姿を見ることができます。
 我が家の信仰のあり方を考えさせられます。そしてキリストの囚人との自己紹介は今日キリストに捕らえられた私たちも用いるべき自己紹介ではないでしょうか。自分の思いで生きていますか。主の囚人、主人のある身として生きていますか。
 囚人として、奴隷であり今は囚人のようなオネシモと同じ立場に立っています。あなたの目線はへりくだっていますか?

【5〜7節】 感謝の言葉

 ピレモンという人物はパウロに感謝と共に祈られている信仰者でした。その良い働きの知らせは遠くパウロの耳に届き、信仰にも愛にも良い証しを立てていた人物でした。自分の信仰が聖徒を励まし、愛の業が聖徒を励ましている。そして励まされた人々が自分のために感謝を持って祈ってくれている。この祈りと奉仕の循環が広い範囲で、いやそれ以上に顔を見たこともないような交わりの中で起こっていることに不思議を覚えます。
 同時に当たり前にそれがなされているところに、御名を信じる群れの素晴らしさを見ることができます。
 あなたは、遠く離れている信仰の友の消息を知っていますか?その良い証しを聞いていますか。感謝のあふれ出る祈りで祈り合っていますか。

【8〜18節】 身代わり

 「獄中で生んだ我が子オネシモ」と言うほどに、悔い改めたオネシモは獄中のパウロにとってどれほどの助けになったか、想像のたやすいところです。もともと、主人のもとで働いていた経験は無駄ではなかった。パウロはオネシモを本当の意味でオネシモと呼べる存在になりました。「オネシモ」とは「役立つ者」と言う意味だからです。
 確かに信仰者となったオネシモ、罪赦された神の国の民と数えられたのではありますが、この世において法を犯した事実が消えるわけではない。この世のルールのなかで償いをしなければなりません。信仰ゆえに道徳が蔑ろにされることはないのです。福音を受け取り、信仰を持って罪赦された者の大切な次のステップは実践です。オネシモにとっては真の悔い改めの実を結ぶことでした。ピレモンにとっては損害を与えたこの罪人を赦すこと、そして神に回復した兄弟として受け入れることでした。あなたは悔い改めの実を結ばせていますか。
 当時、奴隷制度が当たり前の習慣のなかで、一奴隷を兄弟として迎えることは、実社会には合わない。そんなことをする主人など皆無に等しかった。それを求められているピレモンです。
 私たちは実社会に生きています。習慣、慣例、ごく当たり前に過ごしていることのなかで、逆行するかのような信仰のチャレンジを受けていることに気づいていますか。その時、信仰が実を結び、恵みを受け与える者となります。
 信仰ゆえに罪は赦された、しかし地上において償うべきことがあるならば蔑ろにしてはいけない。償うべき人はいませんか。

【19〜22節】 手本となる

 一足先にパウロの実践、お手本があります。ピレモンは確かに負債を負いました、しかしそれをパウロが補填するというのです。身代わりの代価の支払いです。このパウロの手本は、イエス・キリストの十字架です。
 あなたは信仰に生きるというという生きた方の手本となっていますか。また、あなたの手本は誰でしょうか。

【23〜25節】 再会の願い

 ピレモンに期待されていることはもはやキリスト教会全体の祈りの課題です。この決断を導くのは、イエス・キリストの導きに委ねました。パウロはオネシモと共にこの手紙をピレモンに送りました。
 パウロは自分の名によって、使徒職によって、これまでの関わりや、義理を持ってピレモンに強いることは容易かったことでしょう。オネシモにとってもその言葉を携えていった方が、旅程の足取りも軽かったかもしれません。ピレモンにとっても信仰のチャレンジ無く、言い訳の一つ「あのパウロに言われては・・・」となり得たかもしれません。
 しかし一人一人、信仰によって恵みを受けた者は、信仰によってチャレンジを受け、恵みを施す者と整えられてゆくのです。困難な道を避けてはいけません、乗り越えたその先に喜びの再会があります。地上でか、天の御国でか。


【信仰告白】

[2] 使徒信条