現状がいかようであろうとも、しかし私は、健全な教えにふさわしいことを話す者であることが期待されています。
信仰と愛と忍耐、コリント教会へはここを希望と記したパウロは、老齢者に向けて忍耐と置き換える。自制をもって生きることを勧めるパウロは、長い人生の中で経験や知識などを語るとしても、そこには自制と忍耐を伴う、信仰と愛の業が必要であると言うのです。「若い者は・・・」と嘆く前に、信仰と愛と忍耐をもって、頼られる存在となりましょう。集まれば噂話に花が咲くと言う集まりにしていませんか。若者がその経験と知恵の言葉を素直に聞ける時、神を中心とした素晴らしい交わりが生まれるのです。若い母親たちは、悩んでいます。頼られ、祈りあえる交わりを備えましょう。あわせて若者は一時の情熱で暴走するのではなく、老齢者にならい、思慮深くありましょう。
教える者を守るのはその言葉と行いの正しさです。教師としての権威(肩書き!?)に傲らず、群れの模範となっているでしょうか。言うことを聞いてもらえないのは、自分の教えと行いに矛盾があるからではないでしょうか。
従うべき立場にある人は口答えをしてはいけません。言葉に自分の正しさを証明させるのではなく、まずは真実を持って仕え尽くすべきです。年長者、指導者の言うことを素直に聞けない若い牧師が増えています。服従と言う言葉の意味と行いをもう一度点検しましょう。キリストの僕を自称するならなおさら、神の栄光も盗まず、努めて真実を表わそうではありませんか。
神様は人が救われ、神の民として生きることを望んでおられます。それは地上生涯を通してキリスト・イエスの栄光を表して生き尽くすことです。その為にあなたに神の恵みがおよんだのです。あなたはきよめられた神の民として、良いわざに熱心に取り組むことを望まれた民であると自覚していますか。
本当に愛のある行いは、責められることも伴うのです。もし、牧師や同労者、役員や兄姉に自分が責められる時があるなら、感謝と共に改めましょう。あなたの所属する交わりは、キリストにあって生きた交わりです。
手紙を締めくくるにあたり、テトスの任務の再確認です。クレテ人とは「クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう」と言われるほどの特徴を持った人々でした。町中に1人や2人というのではないのです。こういう文化の中で自分を聖く保つことはとても大変なことでしょう。パウロはテトスにこれをクレテのクリスチャンたちにさせるようにと指導しています。責任重大、大仕事です。しかし自分自身がどのような生活から救われたのかを思い返すとき、それは人の業ではなかったことを思い出します。
行いによる義ではなく、ただ神様のいつくしみと愛、憐れみによって救われました。自分の救いを保証しているものは何ですか。あなたの行いですか。それとも主の愛ですか。
あなたはキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人であることをしっかりと確信していますか。まずあなたが握らなければ、周りの人に確信を持って勧めることができません。
みことばに信頼し確信していますか。いくら議論を重ねても、分からない人には分かりません。それは、御子を信じると言うことは聖霊の業だからです。
「愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです」当時教会は偽教師たちの言葉に惑わされることしばしばでした。これは真理について語り合う研究すると言うこととは違います。良い行い、敬虔に生きること以上に説得力のあるものはありません。あなたの行いを点検しましょう。
どうしても教会の一致を乱す人がいます。戒めても回復することがない場合は除名という厳しい勧めがなされています。厳しすぎるように感じますか。しかし、神様は厳しいお方です。神様の権威にへりくだれないたましいは、すでに強情ゆえに裁きを受けているのです。甘やかすことと、愛することは同じではありません。3度目の警告まで時間が許されています。主の教育と指導を謙遜に聞きましょう。
テキコはパウロの同労者でした、投獄されているパウロに代わりエペソ、コロサイに手紙を届けた人物です。このテトス(またはアルテマスかもしれない)へも手紙を届けました。あなたは、高齢の牧師やリーダーたちの働きをサポートしていますか。この大事な手紙が届かなければ宣教の前進に多大な影響があったことでしょう。教会の主もあなたの働きを待っているのではないでしょうか。
キリスト者の交わりは、全世界的です。会ったことのない人同士でも祈りあえる交わりです。さらに深めてゆきましょう。