パウロは、3章から「終わりの日」に注意を向けるように書き出します。福音書において主イエスがすでに語られたように確かに「終わりの日には困難な時代がやって来ること」は知っていたことでしょう。パウロにとって、今テモテの直面する困難は終わりの時代であるという認識があります。それは偽教師たちが終わりの時代の示すしるしとも言えるからです。特に6節以降の動詞では現在形が使われているところからも、パウロの意識する終わりの日とは遠い将来のという認識よりは現在の事柄としての捉えていたと言えます。偽教師たちは外面的な敬虔を強調します(5節)。しかし、本来、聖書が示す敬虔、見える敬虔の強調ではなく、主イエスの恵みによって満たされる敬虔に生きるように教えます。改めて私たちの生き方が主イエスの恵みによって満たされている敬虔なのかどうか吟味させられたいと思います。主イエスのように父なる神の深い御心を教えられ、探られ歩まれたように歩みたいと願います。
パウロは2章14節から3章9節までにおいて、偽教師について触れて語ってきましたが、10節からは再びテモテ自身へと話が戻ります。特に、10節の冒頭を原文のギリシャ語で確認をすると、「あなたは」から始まります。これまでの偽教師について語ったことと対比するように、「あなたは」と強調します。
前節までで敬虔な生活に生きるように教えたパウロは、12節「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と明確に語ります。非常に厳しい言葉ですが、テモテが主イエスに対する信仰によって救いを受ける道とも理解できます。テモテよ、あなたは主イエスが与えてくださる救いに向かって前進して行きなさいと命じるのです。偽教師たち、あるいはその教えにだまされる人たちは、それに進むことはできないし、悪に落ちて行く。そしてあなたを打ち叩くこともあるでしょうが、敬虔に生きることを願いなさいと強く語ります。
ではどのようにして敬虔に生きることを願い、そして強められていけるのでしょうか。それは聖書によるのだと、15〜17節においてパウロは教えます。真の敬虔を求めて生きる者たちに、聖書は「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」(16節)です。ここでパウロが言わんとすることは真の敬虔を求めて生きることは、聖書の権威に従うことだと言い換えることができるでしょう。それには、聖書の教えを学び、戒めに生き、軌道修正をしながら、救われたことを日々味わいながら整えられていくのです。主イエスを救い主として告白させてくださった御霊によって、迫害の中にあっても真の敬虔を求めて歩みたいと願います。そして、救いの完成を目指し、私たちの隣人にもまことの平安と救いを共に味わうことができますように祈ります。