ここでパウロは奴隷についてテモテに勧めます。福音が前進していく中で、奴隷階級にまで福音が浸透したことが分かります。福音の持つ力は人々を神の御前で自由にします。ですからキリスト者であることの特徴を言えば、自由人であると言えます。その自由は「〜からの自由」ではなく、「〜への自由」です。
しかし、奴隷たちは「〜からの自由」ということが念頭にあったようです。ですからパウロはキリスト者として本来あるべき姿を提示します。1節「信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい」
信仰者としての歩みも「〜からの自由」ではなく、「〜への自由」という方向をしっかりと理解し、神を愛し、隣人に仕える者でありたいと願います。
これまで牧会上の諸問題を取り扱ってきたパウロは、3〜10節では偽教師に対して、11〜16節ではテモテへの勧め、そして17〜19節では富んでいる人々への勧めが語られます。これまで、パウロによるテモテへの牧会上のアドバイスとは少し関連性が薄いと考えられますが、なおパウロが語りたい内容と考えられます。
特に、6節において「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」と語るところに、パウロがこれらの課題に取り組むテモテへの確信の勧めてとして与えられているように思います。自らの満足を求めて生きるのではなく、自分自身が満ち足りて生きるのです。その道は修行のようなものではなく、信仰の告白としての道です。「満ち足りる心を伴う敬虔」を、御霊の導きのうちに頂いて日々の営みを感謝をもって歩みたいと願います。
パウロはこの手紙を終えるにあたって、祝福の祈りをもって閉じます。特に、「あなたがたとともに」と複数形をもって語ります。パウロにとって、これまで述べてきた事柄が、今神の御前にいる人々を生かし、そして強めるものとなるように、そんな響きを持つ祈りです。しかも、複数形でありながらも、パウロが見るあなたがたは一つのからだなる教会であり、そして主イエス・キリストの贖いの御業によって一つとされた人々の姿であるのではないでしょうか。まるで、三位一体の神が一つであるように、パウロが見る教会はいつも牧会者と会衆が一体となったものが教会だと改めて気づかされます。ここに聖書の示す不思議な一体感があるのではないでしょうか。
福音に仕える教会として、牧会者と信徒がキリストのからだなる教会として一体となり、成熟し、伝道が前進していく願いをこめてパウロは祝祷します。パウロ自身がささげた祈りに働いた聖霊の息吹を感じながら、祝福の祈りのうちに御霊によって一つにされて信仰生活を歩んでいく者でありたいと願います。