教会には様々な年齢や立場、境遇の人々が集まります。その中で若い牧会者テモテが奮闘し、人々を教え導くことは大変な困難が伴っただろうと想像します。4章で牧師の務めについて原則を語ったパウロが、この5章では個別の事例について対応を勧めます。特に、1〜2節で「勧めなさい」と語られる言葉には、慰めるとか脇から優しく語りかけるという意味があります。これまでの原則論を踏まえて、ただ原則を振りかざし、人々を枠に当てはめていくようなあり方ではなく、みことばの恵みに生きるように勧めることの大切さをパウロはテモテに語ります。牧会者としての配慮に満ちた言葉ではないでしょうか。「励まし、慰めの心をもって教えさとす」ことにより、みことばの教えを共に受け取っていきたいと願います。
この箇所では、長老についての対応を語ります。すでに、3章1〜7節では監督について、3章8〜13節では執事についての教えにおいて、長老の教会的職務の働きと重要さについて語られました。そもそも、長老を現代の教会の職務で平たく言い換えれば教職者や役員(長老・執事)を指します。しかし、ただ教会の運営を任された職務ではなく、魂のお世話をする奉仕と言えます。ですから極端な事を言えば、人柄が良いから牧師や役員になれるということではないはずです。選ばれたから人柄が良いとか、人格者であるとするのはあまりにも軽率な判断かもしれません。
魂のお世話は、牧師や教会役員の人柄によってはできません。人々の魂に関わろうとする時、人柄で魂のお世話ができるのではあれば、努めて良い人を演じていけば苦労することはないでしょう。また、もし人柄だけで牧会の働きが進められていくのではあれば、きっと誰も牧会の働きに相応しい者などいないはずです。ですから、主に召された人々が教会に仕えているという確信が大切であり、それゆえに牧会の務めが前進していくことを祈り、神の教会に加えられた一人ひとりは、敬愛の念を深め、牧会の務めに任じられる者たちのために祈り、支えていくことが求められています。
牧会の務めに任じられる者たちが主の務めを謙虚に慎みをもって受け止め、教会に連なる一人ひとりが尊敬と敬愛をもって支えていき、聖書の教えに堅く立って牧会の務めとあり方を愛をもって吟味し、配慮していきたいと願います。