パウロは15節で重大な発言をします。それは「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台」だと言います。つまり、主イエス・キリストの贖いの御業を信じ、集められた人々が教会だと言います。何とも恐れ多いことです。目に見える教会は欠けだらけでもろく弱い集まりです。しかし、私たちの弱さに焦点が当てられていくのではなく、私たちの中心にいてくださり、私たちを支え導こうとされる主イエスを味わうことが大切だと目が開かれていきます。主イエスの贖いの御業の真理に立つ時に、私たちは主イエスにならう者としてふさわしい行動へと導かれていくのではないでしょうか。あなたの日々の生活が、主イエスを証しする真理の柱であり、土台であることを覚え、願い歩んでいくことを主は願われているのではないでしょうか。
直前の箇所で、主イエスにある兄弟姉妹が、神の家である生ける神の教会であり、真理の柱、その土台だと語られます。その一人ひとりが欠けてはならない神の教会だと励まされます。一方で、神の教会から、主イエスとの交わりから離れていく信仰の友たちがいました。偽りの教えと導きがあること、主イエスの愛から引き離そうとする戦いがあることが分かります。それは時に人々の主義主張の中に現われることもあるかもしれません。時に主義主張の中に御霊の息吹があるのかどうか、熱心さゆえに見極めることは困難な場合が多くあります。ですから信仰の友を失うという経験を教会の歴史は続けているとも言えます。
パウロは偽教師たちの働きを過小評価せずにそのあり方を述べます。パウロは、偽教師たちの良心が麻痺していること、禁欲主義的な傾向があることを見抜いて書き記します。その良心が麻痺すれば放縦へと向かうでしょうし、禁欲主義的傾向があれば制限をかけて行くことでしょう。放縦と制限は相反する事柄です。自己矛盾していると言えますが、偽教師たちは矛盾している事柄に気づかないのです。
主の真理のみことばに堅く立っているといいながら、一方で主の真理のみことばを退けるようなことをすれば、それは自己矛盾をしていると言えます。自らを自己吟味しつつ、御霊により頼んで、自らの言動が主の真理のことばをもって教会を立て上げる者として整えられたいと願います。
この節は教会における牧師の務めについての原則が集約されています。特に、10節で「生ける神に望みを置いている」からこそ、牧師の務めが神の御業なしに行うことができない性格であることに気づかされます。パウロは7節で「敬虔のために自分を鍛練しなさい」とテモテに語ります。ここで「敬虔」と使われている言葉は「信仰のため」という意味があります。つまり、信仰深く、神をおそれ、神に信頼して生きるために語られています。このために訓練されること、鍛えられる必要を教えます。
それは空しい空想話に終わらず、今のいのちと未来のいのちが約束されているからです。ですからパウロはテモテに語ります。教えるのが真理であり、命じるのが真理に従う実践です。真理に従う実践には時に恐れと緊張が伴うかもしれません。だからこそ、真理を見分け、従うことができるように聖霊の助けを頂きたいと願います。