信仰の戦いの厳しさを1章の終わりで語ったパウロが、2章から続けて語ることは「すべての人のために祈る」ことでした。特に「王とすべての高い地位にある人たちのために」祈るようパウロはテモテに勧めます。
そもそも初代教会の多くの地域はローマ帝国の支配下に置かれ、皇帝崇拝の強要など教会として妥協することが許されない問題が山積していたと考えられます。あるいは福音書に見られるように、当時のユダヤ人によるローマ帝国への強い抵抗などもあっただろうと考えられます。さらにはパウロが1章においてテモテに語ってきた偽教師たちの教えの風があり、テモテを取り巻く人々や教会には、様々な偏った考えがあっただろうと分かります。教会の大切な務めである祈りにおいて混乱してしまう状況があったのではないかと思います。
ですから、パウロは「すべての人のために」祈ることを勧めるのです。今、私たちの立っている場所をわきまえて、教会において、信仰生活において祈るのです。「すべての人のために」祈ることは、神の望まれている祈りであり、すべての平安と敬虔に生きる営みに欠かすことのできないものです。私たちの祈りの視野が広がることを願います。
パウロは、8〜12節において男性と女性に非常に厳しい口調で命令をします。むしろ男性は8節だけ、9〜12節は女性への命令ですから、割合から言って少し不公平感が見えてきます。ではパウロは女性を軽んじて、重点的に命じているのでしょうか。
いやむしろ、テモテの牧会する教会では偽教師による教えによって扇動される一部の女性たちがいたことが考えられます。偽教師に扇動された女性たちが男性を支配するような仕方があったのかもしれません。女性による支配が、主なる神が創造の始めに造られた互いに愛し合い、仕え合う関係とは違う、歪んだ関係として、支配し合う関係があったのでしょう。パウロは創世記2章の出来事を振り返りながら創造主なる神の秩序を示していきます。神よって造られた男性と女性のあり方が再確認されています。
男性が女性の上に立つとか、女性が男性の上に立つという話の堂々巡りをここで言いたいのではありません。誰かと比べた優越性や排他性によって、人々に対する自らの責任を放棄するということでもありません。むしろ、主イエスの福音によって救いを与えられた者として、互いに尊重しあい生きていくのです。
時代に流行に乗った主義主張が先立つのではなく、主イエス・キリストが仕えてくださったように互いに仕え合い、祈りあい、支えあっていくことができるのではないでしょうか。
聖書の中には、教会の指導職を表す用語がいくつかあります。例えば、「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」(エペソ4章11節)、「長老、監督」(使徒20章17・28節)、「執事」(ピリピ1章1節)などがあります。では現代の教会ではどうかといえば、教派によって多少の相違はありながら、教職者と役員(長老、執事)という捉え方をしているように思います。
いずれにせよ、パウロが1節で「素晴らしい」と言っているのは、監督としての地位や身分、肩書きではなく、働きの内容です。そこで2節以下、監督に関しては14項目の特質が要求され、8節以下、執事に関しては7項目の特質を要求します。監督に対して、そして執事に対して求められる要求の高さに圧倒されます。誰も担うことなどできないのではないかと物怖じしてしまうかもしれません。
しかし、教会の職務を担うという時、私たちに示されることは「私たちの資格は神からのもの」(IIコリント3章5節)とのみことばを覚えさせられます。神からの資格ですから私たちが誇るものではありません。一方で、神ご自身がこの土の器にすぎない私たちを神のみからだを建てる為の職務にあずからせようとしている厳粛さに目が開かれ、そして神の御業に間に合う者として歩みたいと願います。