パウロは、一貫して律法とは私たち人間のための養育係(ガラテヤ3章24節)のようなものであると教えます。言い方を変えるならば、律法は、私たちに、罪とは何であるか、ということを教え、私たちが罪人であることを指し示すことはできるが、私たちを救うことはできない、ということです。ずっとパウロは、このことをすべての教会に教えてきたことでしょう。しかし、それでも依然として律法による救い、あるいは、律法も必要だ、とする間違った福音を伝えるユダヤ人がいたようです。パウロは弟子であるテモテに、エペソの教会を委ねるにあたって、この、最も根本的で且つ大切な福音の基礎を再確認したわけであります。
さらにパウロは、自分自身の救いの経験から、彼の携えていた栄光の福音、そして本物の福音は、あわれみ、恵み、信仰によるものであり、まさに「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」(15節)という言葉こそが、福音そのものであることを主張します。もし、律法に縛られたままのユダヤ人たちが言うように、救いが律法によるものであるならば、私パウロは、決して救いへと導かれることはないだろう、ということを言いつつも、彼らが大きな勘違いを犯していることを示唆しているのです。
確かにパウロが言うように、もし私たちが律法を守ることによって救いを得たとしたなら、栄光を受けるのは私たち人間であるはずです。しかし、私たち罪人を一方的に赦し、イエスキリストの十字架を与え、救いをもたらしてくださったのは神さまご自身なのです。パウロが17節で感極まって(おそらく・・・)賛美しているように、救いは一方的な神さまの恵みであり、神さまの功績であるからこそ、ただただ栄光は神さまのものなのであります。
私たちがこの一方的な恵み、あわれみ、を忘れてしまうとき、決して福音は正しく伝わらないでしょう。そして、そのようなとき、私たちは、この時代の誤った福音をもっていたユダヤ人たちのように、高慢で、人を見下す愚か者のようになっていることでしょう。私たちは救われているから偉いのでしょうか?賢いのでしょうか?決してそんなことはないはずです。教会がこの大切な真実を忘れてしまうとき、いのちと力を失ってしまいます。「恵み」を忘れる愚かなクリスチャンにはなりたくはないものです。