パウロは、このとき伝道している場所において困難があったようで、そのために祈ってくれるよう頼みます。その原因であった「ひねくれた悪人ども」(2節)は、テサロニケの人々をも攻撃する可能性もあるので、パウロは彼らが守られるように祈るのです。
しかし、賞賛されるべき歩みをしていたテサロニケ教会のなかにも、主の宣教の働きを妨げる存在があったのです。それが「締まりのない歩み方をしている人たち」(11節)でした。それはどうやら、主の宣教のために、あるいは教会のために働いている、と主張し、本来の自分の仕事をおろそかにし、教会のお世話になっているような厄介者のようでした。もちろん、パウロ自身が主張(9節)するように、もっぱら宣教の働きをする者のための負担を、教会は喜んで負うべきですが、その援助を不当に受けている人がいたのです。パウロはあえて、このような歩みを否定するために、自分の権利を捨てて模範を示したのです。パウロは、こういう人々に対する厳しい措置(14節)を言い送ります。しかし、「兄弟として戒めなさい」(15節)と言います。それは、彼らのしていたことが、教会の宣教のために、必ずしもマイナスであるわけではなかったからでしょう。ただ、勘違いし、甘えていた怠惰な者たちだったからでしょう。
「たゆむことなく善を行いなさい」(13節)というパウロの言葉は、この世で生きていく私たち人間にとってとても大切な言葉です。教会のなかの「善」が必ずしも世において「善」であるわけではないからです。もちろん世が間違っている場合も多々あります。しかし、教会で「善」とされていることが、この締まりのない人々のように、怠惰の実であったなら、本当の、主を証しする「善」とは言えないのです。
さて、私たちの教会のなかに、「善」とは言えない怠惰や、甘えのようなものはないでしょうか。私はこう言うときいつも「教会タイム(=遅れて始まること)」という恥ずかしい言葉を想い出すのです。本当は教会こそが、この世をリードする「善」を生み出す模範となるべきなのではないでしょうか。私たちは、善なる神さまを信じ、仕えているのですから。