第一の手紙のように、1章にはどれほどパウロがテサロニケ教会の人々の信仰と信仰者としてのあり方を誇りに思っているかが記されています。時が経つにつれ愛が増し加わり、厳しさのなかで従順、信仰を保っている(1章3〜4節)。第一の手紙のときよりもさらに成長した彼らの姿は賞賛に値します。しかしなお厳しい戦いと苦難のなかにあったようで、パウロはその報いとしての神さまの安息が、必ずあなたがたに及ぶ、ということを伝え、励ますのです。
そんなテサロニケ教会にも問題があったようです。それがキリストの再臨に関する誤解でした。私たち福音派と呼ばれる教会は「切迫した再臨信仰」、つまり、再臨は今日来てもおかしくない、と信じています。それは健全な聖書的信仰なのですが、それが行き過ぎてしまっている現実があったようです。問題は、もう主の日が来たかのような噂が流れていたことです。全世界の主が一部の人だけが知っているような形でこの世に降りてこられるはずはないのです。パウロは、その噂のばかばかしさと、主の日のしるしを詳しく教えていきます。
「不法の人が現れる」というしるしが再臨の時の一つのしるしであるようです。そして、その不法の人には、神さまによって偽りを信じるように惑わす力が与えられる(11節)というのです。それは、「悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるため」(12節)とパウロは言います。まるでありとあらゆる全ての悪をいぶり出すかのような神さまの悪に対する徹底的な厳しさ。隠れおおせる人や悪事はただの一つもない。完璧な義のさばきが行われる。それが終わりの日なのです。だからこそ、自分(パウロ)が教えた教えに堅く立ち、クリスチャンとしてしっかりとした歩みをしていなさい、と勧めているのです。
不法の人とは一体どのような人なのでしょうか? 私たちにはまだそれは分かりません。しかし、しるしを見分ける賢さを身につけることよりも、どんな力を持った不法の人が来たとしても、決してつけ込まれることのない「義」を保つことに専心しましょう。そのために主の教えに従って歩もうではありませんか。