もう一度パウロは、自分がどれほどテサロニケに行って、あなた方に会いたいかということを伝え、それとともに彼らの聖化のために祈ります(3章12〜13節)。そのなかでも12節の言葉は出色です。イエス様は弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15章12節)と命じられました。パウロは弟子からこのことを聞いていたことでしょう。そして、確かに自分が示した愛が、イエス様の愛と同じであることに自信を持っていた、と言うことです。「私を見ないでイエス様を見てください」といつも言うようなクリスチャンではなく、「私を見てください」と言えるパウロのようなクリスチャンになりたいものです。
最後に(と言ってもまだ続きますが・・・)、パウロは少し具体的に勧告、警告をしていきます。それはやはり異邦人という、クリスチャン(もしくはユダヤ人)のライフスタイルが浸透していない人々に囲まれたテサロニケのクリスチャンに対する配慮であったのでしょう。キーワードは「聖潔」(4章7節)です。罪を赦してくださる神さまの恵みを、罪に溺れる口実に、絶対にしてはならないのです。
さらにパウロは、落ち着いた生活を送り、仕事に精を出しなさい、と勧めます。それは、外部の人々に対する良い証しとなるためであり、同時に主イエス様がもう一度この世に来られて世をさばくときに備えるためでもありました。3章13節のようになるための勧めである、と言うこともできるでしょう。
確かにキリストの再臨の時に完全に正しいさばきがなされ、義が成就するとしたなら、それを待ち望み、伝える人々の歩みも問われる、と言えるでしょう。私たちが「聖潔」を目指した歩みをしなくては、一体誰が完全な義のなる終末をイメージし、信じることができるでしょうか。私たちの日々の歩みそのものが、キリストの再臨の証しでもあるのです。