パウロは、クリスチャンに対して迫害があるのは当たり前のことだと語ります。それはイエス様も、「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(ヨハネ15章19節)と警告したとおりです。パウロは自分の伝道の実である異邦人のテサロニケ教会が、実際に存在した迫害や様々な誘惑によって弱っていってしまうことを危惧していました。心から誇りに思う人々だからこそ、直接会いに行って励ましたいと願っていたのです。しかし、パウロ本人が行くことはかなわず、彼は弟子のテモテをテサロニケ教会に遣わしました。ところが、帰ってきたテモテから聞いた報告は、驚くべきものであったのです。彼らは「あらゆる苦しみと患難のうち」(3章7節)にあっても「主の前に堅く立ってい」(3章8節)た、と言うのであります。パウロの喜びはいかほどだったことでしょう。
よく、「教会と夫は、釣った魚に餌はやらない」と言われます。つまり、伝道はするけれども、伝道によって得た実を守り、育てるということにおろそかである、ということです。確かに教会で「教育」という言葉を出すと反発を受けることがあります。教会は伝道するところだ、と。しかし、私たち弱い人間の心のなかでは、せっかく与えられた真理でさえも、様々な妨げによって変色し、歪められ、ときに朽ちてしまうことがあるのです。パウロはそのことを重々知っていたので、テサロニケ教会に自分が、もしくはテモテが出向き、教育する必要を感じていたのです。しかし、テサロニケの教会は、彼らが行くまでもなくしっかりと教育がなされていて、真理は守られていたようです。あなたの教会はどうでしょう。真理にしっかり立つために教育がなされていますか?そしてあなたはそういう教育の必要性を実感し、学んでいますか?聖書教育なしに生きていけるほど、この世は甘くはないのです。