パウロが「私たちと主とにならう者」(1章6節)、信者の模範(1章7節)と評し、信仰や、どのように救われ、神に仕え、また、主イエス様の再臨の日を待ち望んでいるか、と言うことを、人々が言い広めていた(1章8〜10節)とは、テサロニケの人々の評判には驚くばかりです。
パウロは続いて、自分たちもまた、テサロニケの人々に伝道する際にはどれほど一生懸命に、そして正しい態度で臨んだか、ということを語ります。彼らの福音、そしてそれはもちろん今や私たちの福音でもありますが、不純な思いに邪魔されることもなく、自分を喜ばせるのではなく神を喜ばせるために、苦闘しながらその福音を語ってきた、と言います。それにしても、あのパウロが「あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました」(2章7節)とは!!最初の伝道旅行で脱落したヨハネ・マルコを冷たく(?)突き放した時(参照:使徒15章38節)とは格段の差があります。おそらく「伝道」というわざに伴う忍耐の必要を語っているのでしょう。ただ「これが正しいのだ!これを信じろ!」と大上段に構えるだけでは真理は伝わらない、というのはこの時代も今の時代もまた真理です。
このような労苦があったとしても、自分たちの伝道の実が、冒頭のような人々であったとしたなら、伝道者冥利に尽きる、というものです。同時に、私たち自身も、先人の伝道の実であることを覚えさせられます。神さまが私をお選びになり、私を救ってくださいました。しかし、自分の救いのために用いられた「人」が必ずいる、というのもまた事実です。「私」というクリスチャンはその方の伝道の実です。このようにして救いの福音は全世界に広まっていきます。そう、私たちもまた、実をならせる伝道者にならなければならないのです。ただ「神を喜ばせようとして」(2章4節)語り続けるなら、そこに、必ず素晴らしい伝道の「実」を見ることができるでしょう。