キリストの十字架の死とよみがえりによって新たな命をいただいたものは、2章で語られていたような「人間の戒めと教え」からは自由になっています。では、自分の好きなように生きてよい、ということになるのでしょうか。そうではない、とパウロははっきりと言います。むしろキリストとともによみがえらされた者として、この世の考え方、ライフスタイルを捨てて、天に国籍のある者としてこの地上を生きなさい、と命じています。5節の「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」という言葉が心に突き刺さります。偶像礼拝というと、異教の神仏を象ったものを拝む行為を想起します。しかし聖書は、むさぼり、貪欲は偶像礼拝にほかならない、と言うのです。より最新のファッション、より最新の電化製品、より目新しくて豪華な食事、等々。たえず「より新しいものを求めよ。流行に後れるな」というメッセージに満ち溢れている現代に生きる私たちこそ、「上にあるものを求め」ている生き方をしているのか、折々に自らを吟味する必要があると思わされます。
続けてパウロは12節から17節において、私たちに対する神の愛と選び(12節)に基づき、私たちはお互いに対してどのようにあるべきなのか教えています。私たちのあるべき姿というのが、人間関係のなかで語られていることに注目したいと思います。孤高の人となる、というのは聖書が教える私たちの目指すべき姿ではありません。キリストが私たち人間と同じ姿をとって私たちのただなかに来てくださり、私たちと交わりをもってくださったように、私たちもキリスト者の共同体のなかでキリストに似たものとなる、ということが聖書の教える歩むべき道なのです。そしてキリスト者の共同体の最小単位である「家庭」において、妻は、夫は、子どもは、父は、奴隷は、主人(4章1節)は、それぞれどのようにあるべきなのか、具体的に指導がなされています。