この箇所は、この手紙の中心的な部分といえます。キリストの受肉と十字架の前に、このキリストから引き離すような教えはどのようなものであってもすべて「むなしい、だましごとの哲学、人の言い伝え、この世の幼稚な教え」であるとパウロは明言します。11〜23節を見ると、パウロが警告しているこの教えは、「割礼」、「食事に関する律法」、「ユダヤ教に基づく暦(こよみ)」について、強い主張をもっていたことがうかがえます。パウロはその教えに対して、「あなたがたはキリストの十字架による罪の赦しという真の割礼をうけたのだ」「食事や特別な日についての律法は、来るべきもの、すなわちキリストの影であって、このキリストを信じている今はこれらの律法から自由になっているのだ」と反論します。そしてそのような教えは一見すると賢く見えるのだが、実は肉のほしいままな欲望に対しては、何の効き目もないものだ、とバッサリ切って捨てます(23節)。むしろ私たちキリスト者の目指すべきは、19節に記されている、かしらなるキリストに固く結びつき、神によって成長させられることなのです。
私たちの歩みはどうでしょうか。「○○をしない」、「△△を避ける」、もちろんこういった態度そのものが間違っているとはいえませんし、ときに信仰者としてそのようなことは必要なのですが、しかしそれ以上に、「キリストに固く結びつくこと」、「キリストにあって歩むこと」といった信仰の第一義的なあり方、積極的なあり方といってもいいかもしれませんが、そのことをまず心に留め、目標とすべきである、そう教えられているのではないかと思います。