パウロは、あなたがたはこの御子の福音によって救いに与ったのであるから、続けて信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れないようにと命じます。そしてその福音の宣教こそがパウロの使命であると語ります。コロサイ教会は、パウロが建てあげた教会ではなく、まだ訪問したことのない教会でした。しかしパウロは、そのようなまだ見ぬコロサイの信徒たちに、自らが囚われの身となっているのは、この福音の宣教のためであり、特にあなたがたのような異邦人キリスト者の教会のためなのだ、と語りかけています。
24節の「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」というのは、当然のことながら、「キリストの十字架の働きが十分でない」という意味ではありません。そうではなく、「父なる神は御子の十字架によって和解の道を備えるというお働きを完了なさった。今は私たちに、その福音を、困難や迫害のなかにあっても、あらゆる人々に宣べ伝える使命が与えられている。私パウロはあなたがたのために、囚われの身となるという苦しみとともにその使命をはたそうと奮闘しているのだよ」と言っているのです。それゆえパウロは、比較的信者になって間もないコロサイやラオデキアの信徒たちに、「まことしやかな議論によって」誤った教えに導かれることがないよう(2章4節)、引き続き主キリスト・イエスにあって歩むように命じます(2章6節)。