第40土曜 ピリピ2:12-30



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 16節「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます」。中ごろに「自分の努力したことがむだではなく」とあります。他の翻訳では「自分の走ったことが無駄でなく」と訳されています。先日、電車で娘と出かける用がありまして、時間がギリギリだったものですから暑さのなかを娘を抱っこして必死に駅まで走りました。一本乗り遅れると次は45分後ですから予定が大幅に狂ってしまいます。汗だくだくになりながら、間一髪間に合ってほっとしたのです。「自分の走ったことが無駄でなく」と聞いて、そんなことを思い起こしました。逆に考えますと、もしあのとき電車に間に合わなかったら、自分が走ったことがすべて無駄になっていたのです。どんなにがっかりしたことでしょうか。

 私たちの人生において同じことを考える必要があります。一生懸命努力したこと、頑張ったことが無駄にならない、報われる人生を歩む必要があります。人生の最後に「あの努力は何のためだったか。空しい」、そんな取り返しのつかないことにならないためにです。

 16節の言葉は、正確には「無駄ではなかった」というパウロの確信を語っております。パウロは自分が走ったことが無駄にはならなかったと言い切っているのです。そしてそのことの解説として、17節「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます」。ここでパウロははっきりと自身の殉教に目を向けています。あなたがた、つまりピリピ教会のための注ぎの供え物になっても喜ぶ。供え物とはいけにえのことです。旧約の時代においてイスラエルの民は、家畜の中で最上のものをいけにえとしてささげました。手塩にかけて育てた家畜のなかで最上のものをささげる、これは育てた者にしか分からない痛みです。自分の仕事に置き換えたら分かりやすいでしょう。最も良くできたものを捨てなければいけない。辛いことです。そのようにして、最上のものを犠牲にすることによって、自分の罪の大きさを知るのです。パウロは、自分がピリピ教会においてそのような犠牲となることを喜んでおります。そのような自分の人生が「無駄ではなかった」と語っているのです。伝道者として走りに走った挙句、犠牲(いけにえ)となる人生。これは人間的に考えるならば、駅まで必死に走ったのに結局電車に乗り遅れるような空しいことに思えるかもしれません。しかしパウロは「キリストの日に」と語っているのです。

 主にあるすべての業が無駄ではなかったと確信するキリストの日があるのです。パウロはその日を目指して走っていましたから、たとえこの世にあっては報われないと思えるような人生であっても、自分の信仰者としての歩みに確信を持っておりました。私たちも、目先の事柄に一喜一憂するのではなく、キリストにあって無駄にならない、と確信できる歩みに目を向けましょう。私たちの全ての歩みが、神様によって受け止められていることを忘れないでいたいのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条