今朝の聖書の御言葉のなかで、5節からは特に有名な箇所です。「キリスト賛歌」と呼ばれ、イエス・キリストのお姿、イエス様の生き方、イエス様が手本を見せてくださった地上の歩みが要約されているのです。6〜8節「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。このところにはっきりと示されているイエス様の方向性に目を留めたいのです。「神であられたのに、ご自分を無にして、神の御姿を捨てて人間と同じようになられた」。これだけでも驚くべきことです。神の姿を捨てて人間になられた。けれどもそれだけではない。今度は、人間としての性質を持ってお生まれになったばかりか、さらにご自分を卑しくされた。そして、神であるのに死を経験された。しかもその死は十字架刑という、最も無残な死であった。つまり、神であるという最も高いところから、人になるということにおいて降りてこられ、人としても馬小屋に生まれ貧しさのなかでさらに下に降りて行かれた。それだけでない、死においても裸で木につるされるという、人間の尊厳を踏みにじられるお姿になられることによって、最も低いところに降りていかれた。これがイエス様の生涯を貫いている方向性です。
一方私たちはどうでしょうか。多かれ少なかれ、人間というのは上昇志向で生きています。例えば、最近通信販売というのがとても流行っています。カタログを見ているといろいろと便利な物、魅力的なものが多く載っている。新聞の広告を見ても同じことが言えるでしょう。どうしてこれだけ物が溢れた時代にあって、そうした新しい物が私たちの目を奪うのでしょうか。それは、私たちのうちに、常に今よりも便利で快適に心地よい生活をしたいという、上に向かいたい気持ちがあるからです。人間は現状維持ではいられません。ましてや今よりも生活の水準が下がるというのは耐え難いでしょう。少しでも快適に便利に気持ちよく。物質的にも経済的にも地位・名誉・権力、あらゆるものにおいて上昇志向が私たちのうちにはあるのです。イエス様の方向性とは真逆にあります。最も高いところにおられたイエス様は下に下にと生きてくださり、惨めで弱い底辺をさ迷う私たち人間は上に上にと生きているのです。イエス様が低く生きてくださったのは、罪ゆえにこの世の底辺を生きる私たちを救い出す道を備えるためであったのです。自分の貧しさを正直に認めるときにこそ、そこにイエス様がいてくださいます。
今日私たちは、イエス様のいない着飾った場所を生きるでしょうか。それとも、イエス様がいてくださることの慰めのうちに、低く歩むでしょうか。