ピリピ教会誕生の経緯は、使徒の働き16章に記されております。パウロの第2回伝道旅行において建て上げられた教会です。ルデヤという1人の婦人を中心に集まり、成長していった教会のようであります。ピリピ人への手紙はしばしば「喜びの手紙」と呼ばれます。「喜び」という言葉が、わずか4章の短い書物の中に13回使われています。4節に早速「あなたがたのために祈るごとに喜びがある」と語っています。確かに、ピリピ書を読みますとパウロの喜びがいたるところに感じられるのです。
そこで私たちが考えたいのは、喜びとはどのような状況において生れてくるのかということです。パウロがピリピ教会に手紙を書きながら喜びに満たされていたことは、決して当然のことではありません。パウロがピリピ教会に手紙を書き送った理由がいくつか考えられますが、ひとつにはピリピ教会が問題を抱えていたからだと思われます。ピリピ書のもうひとつのキーワードとして「すべて」という言葉が頻繁に使われています。1節には「ピリピにいるすべての聖徒たち」とあります。わざわざ「すべて」という言葉を頻繁に使うのは、教会内部に分裂があったか、もしくは一部の人々が教会の交わりから疎外されるようなことがあったのかもしれません。自分の開拓した教会がそのような試練のなかにあり、またパウロ自身はこのとき牢獄にいるのです。人間的に考えるならば、喜べることが当然の状況ではありません。しかし、そうしたなかにあってなお「喜びの手紙」を書いたパウロ、そのようにパウロを生かした信仰に目を向けていきましょう。
パウロは12節から「福音を前進させることになった」ひとつのエピソードを語っています。これもパウロの喜びの証です。「福音が前進した」とパウロが語っている出来事とはどのようなことでしょうか。13・14節「私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました」。パウロが喜んでいる福音の前進とは、自分がキリストのゆえに投獄されていることが知れ渡ったこと。同労者たちが大胆に御言葉を語るようになったことであります。これまでいくつもの教会を建て上げ、多くの人々を信仰へと導いた大伝道者パウロが、「自分がキリストのゆえに投獄されていることが知れ渡った」、ただそれだけのことを福音の前進と喜んでいる姿に教えられます。親衛隊から幾人かが救われたわけではないのです。兄弟たちがパウロの投獄に奮い立って、多くの人々を導いたとは書いてありません。ただ大胆に語るようになった、そのことだけであります。けれどもそこにパウロは福音の前進を見ています。
私たちも同じように福音の前進を喜べるのではないでしょうか。「トラクトを配っても一人も教会に来ない、失敗だ」ではありません。幾人かの人はトラクトを手にとって見て教会の存在を知ったでしょう。福音の前進です。「友人を教会に誘ったけれども断られた、失敗だ」ではありません。教会には来なかったけれども、自分がクリスチャンであることを知ってもらえた。いつか友人が必要を感じたときにきっと声をかけてくれるのではないでしょうか。これも福音の前進です。
今日も私たちを用いて福音を前進させてくださる主に、感謝をもって、喜びをもって、希望をもって歩むことができるのです。