5章から続く具体的なすすめは、10節「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」によって締めくくられます。神に愛される者としての相応しい生き方は、神の無限の愛に包まれることのうちに生れてくるのであります。私たちが、十字架を通して示された愛の大きさに気がつくならば、そこで必ず生れてくる歩みがあるのです。
昔、物事がうまくいかずイライラしていたときに、母親から「私の息子にしてはよくやっている」と慰められました。妥当な慰めと言えるでしょう。不完全な人間の親から「私の子どもなのになぜこんなことができないのか!」などと言われたら腹が立ちます。「あなたの子どもだからできないのだよ」と言い返したらよいでしょう。
逆のこともあります。有名な演奏家の子どもが、私のような凡人なら数年かけて練習して習得しなければできないようなことを、何の苦労もなくやってのけてしまう。そういう姿を見ると、生まれもった資質とともに、育った音楽環境の良さを思わずにはいられません。それは彼個人の能力を超えて、彼の背後にある様々な力によって生み出されていく音楽性なのでしょう。
同じように、私たちのクリスチャンとしての歩みも、私たちの努力から作り上げられていくようなものではありません。努力によって習得するのではなく、まさしく天性の賜物なのです。天の神様の大能の御力に押し出されるようにして生れてくるものであります。そこで私たちが気をつけるべきことは、せっかく押し出してくださる神様の力に私たちの余計な力を加えないことです。
神の武具を身につけよ、と教えられています。どんなときにも御霊によって祈れ、と教えられています。神の武具が私たちを守り、神の武具が敵を打ち破ります。もともと神様によって造られた私たち人間には、神の武具が一番ぴったりくるはずです。けれども、この世の武具を身に着けて戦いたくなる愚かさが、私たちのうちにはあります。自分を誇りたくなる気持ちが、神様以外のところから武具を持ち出してくる失敗につながります。
今日、あなたを守り、あなたに勝利を与えるために備えられている神様の武具、大能の神様の力を喜んで受け取りましょう。神様の子どもであることの特権、恵みを豊かに体験することができるでしょう。