1節「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」。神様に愛されている子どもらしさが、5章においてはより具体的に教えられています。特に5章の終わりに記されております夫・妻に対する教えは、家庭という社会の最小単位においての、クリスチャンとしての相応しいあり方に対する教えとして、興味深いものであります。
25節「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」。キリストの教会に対する愛が、夫の妻に対する愛の模範として示されていることに驚きを覚えます。
26・27節「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」。イエス様が教会を愛されたのは、教会が愛するに相応しい相手だったからではありません。むしろ、イエス様にはあまりにも不釣り合いな相手、罪のしみやしわだらけな教会でありました。そのような相手を、聖く傷のないものにするために、ご自身を犠牲にして愛してくださったのです。
私のお仕えしております教会のあるご婦人が、お医者さんから「体重が重すぎて膝に負担がかかっている。食事を少し控えなさい」と言われたそうです。それで私に愚痴るのです。「先生、食事を満足に食べられないくらいなら、歩けなくなった方がマシです!」 けれどもそんなことを言いながら甘い物を控えて、痛む足を労わりながら散歩し、健康管理に努めておられます。膝が悪ければ、体全体が膝を思いやるでしょう。自分の体においては、そのように弱い場所を切り捨てるようなことをせず、かえって弱い場所を守るために全身が協力いたします。しかしそれが他の人のことになりますと、私たちは途端に犠牲を払うということができなくなってしまうのです。
愛するに相応しい素晴らしい相手だから愛するのではありません。むしろ愛において求められることは、相手の弱さのために、いかに犠牲を払うことができるかです。自分にとって都合の良い、好ましいところだけを愛したとしても、それはただの自己中心に過ぎません。しかし、傷だらけの教会を、一点の曇りもないイエス様が、ご自身の命をかけて愛し抜き、そのことによってご自身は傷を負われましたが、教会は美しい花嫁と変えられた。このような愛、自分に都合の良い愛ではなく、相手の立場に立って自己を犠牲にできる愛こそが、まずご一方的に愛していただいた私たちに相応しい、「神に愛されている子どもらしさ」と言えるでしょう。
愛されていることの喜びと、愛することのできる喜びに、生きることができますように。