近年、「〜らしさ」という言葉は敬遠されることが多いようです。「男らしく。女らしく」などと口にしましたら「それは差別だ!」などと怒られてしまうかもしれません。私自身「牧師らしさ」などというものを問われたら少々嫌な気がするように思います。確かに、「〜らしさ」という言葉のなかに、その本質から外れたことが含まれていて、どうでも良いことのなかに、人を縛りつけようとする間違いがあるのでしょう。牧師は静かで大人しく、よく本を読み、いつもにこやかで・・・。そんな牧師らしさを要求されたら、たまりません。けれども一方で、「らしさ」という言葉を否定することにおいて、本来負うべき本質的な責任をも回避してしまうなら、それもまた大きな過ちであります。
パウロは1節で「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」、そして2節以降に具体的な「ふさわしさ」を記していきます。これは言ってみれば「クリスチャンらしさ」の教えと言えないでしょうか。「クリスチャンらしさ」、「あなたの髪型、クリスチャンらしくないわね」などと言われたら「ほっとけ!」と思うかもしれません。けれどもそれは、「クリスチャンらしさ」の定義が間違っているのでありまして、「クリスチャンらしさ」を問うことが間違っているわけではありません。3章で学びましたように、イエス・キリストの福音という宝をいただいている者としての相応しい生き方、在り方を追及する責任を否定してはいけないのです。
けれども聖書が教えております「クリスチャンらしさ」とは、クリスチャンらしい誰かがいるということではありません。神様に愛されるに相応しくない私たちをご一方的に愛してくださった、愛されている者としての相応しい歩みが教えられているのです。
特に4章で強調されておりますことは、信仰において一致することです。誰とでも一致すれば良いわけではありません。一致してはいけないものがたくさんあります。けれども、一致しなければならないものがある。それは神の御霊の下にあるところの一致です。
人間が一致できない理由はたくさんあります。いえ、むしろ人間同士が完全に一致することはありえないのです。私たちは、人と自分が違うということのなかに、自分の存在意義を認めようとするからです。しかし、イエス・キリストの十字架によって救われた者は、人より優れた自分の何がしかを誇りに生きるのではなく、ただご一方的な福音の恵みだけを誇りにして生きるのです。神の下にいる者に一致がないとは、神の恵みだけに生きていないことを意味します。神以外の何かを主張したくなるときに、衝突が起こってしまうからです。
福音という宝をいただいた私たちキリスト者に相応しい生き方は、ただその宝だけを誇りにし、頼りにして生きる歩みです。今日、私たちのうちにキリストの十字架以外の何かを誇る思いがないでしょうか。いただいた宝に相応しい生き方に、もう一度心を向けたいのです。